日本の常識・世界の「非」常識:

日記とか旅行記を書いていると、どうしても日本と外国との比較について書くことが多くなっているということに最近気付いた。そこでこの際、単純な比較論ではなく、日本にだけしかない習慣や常識についてエッセー風に書くことにする。
私は会社生活20年以上の大半を、外人とのつきあいとか短期間ながら海外で過ごしたこもあることから、色々内外の違いというものを見てきた。そして外から日本を見ると、独特な文化や歴史から生まれているもの、あるいは海外から持ち込まれた文化や経済システムが次第にその原形とは似ても似つかないかたちに変わってしまったものなど、日本でしか見られないというものが最近目立つように感ずることが多くなってきた。つまり日本では常識と思われていることが、よく見ると世界的には「非」常識であるということが結構あることに気付き始めたのである。
それで、どうしてもその違いをきちんと知っておかないと、日本のことあるいは世界のことを正しく理解できないという思いを強くした。もちろん「過労死」とか「単身赴任」など最近マスコミなどで一般に知られるようになったものもあるが、まだまだ数は少ない。従ってほんの個人的な経験ながらその一端をここにメモをつけておくことにした。
なお、マスコミなどで良く知られている問題はなるべく触れないことにする。但し、もし触れることがあっても、それらとは違った観点から記述するように努めるつもりである。
なお、言うまでもないことだが、ここに書かれている観点は私独自の「独断と偏見」に基づいている。それからタイトルにあるカッコ付きの「非」というのは、「日本だけの非常識」として批判されるべきものが多いとはいえ、日本での常識が世界的傾向から見てすべて非難されるべきものかどうか、確定していない問題も有り得るということを考慮してのものである。従って具体的な問題点や批判は各論にゆずることとしたい。

 

世帯主:(20.12.19)
夫婦同姓の強制:(16.01.10)
上司に相談してから・・・:(15.03.03)
ノー残業デー:(13.05.28)
「後期高齢者医療」:(10.07.19)
期間の定めのない非正規雇用:(10.05.02)
連帯責任:(07.06.06)
電線のサイズ:(05.10.20)
お客様は神様・2:(04.11.10)
ホールインワン保険:(04.06.11)
和製英語:(04.05.09)
バレンタインデーにはチョコレート:(04.02.10)
人減らしすると減税?:(03.11.04)
公務員の基本労働権:(03.03.30)
紙サイズの規格:(03.03.13)
マスコミの「駆け引き論」、「攻防論」:(03.03.01)
4つ切りの画用紙:(02.11.03)
税金で紙くずを買うな!:(02.09.22)
寄生虫を育てていいのか?:(02.07.15)
日本政府は定年退職者に対して追い剥ぎの役目をする:(02.07.06)
自動連結器:(02.05.07)
賃下げを要求する労組:(02.02.25)
採用通知:(02.01.26)
憲法を常に敵視する政権党:(01.09.02)
アルカリ性食品:(01.05.01)
列車ダイヤ:(01.04.24)
PCの世界でも・・・:(01.03.12)
謝罪:(01.03.05)
経費削減、どこから手をつける?:(01.03.04)
「日本流」ワークシェアリング:(01.02.10)
春闘:(00.12.31)
反省も教訓もない「会計ビッグバン」:(00.12.04)
問題からの回避:(00.11.20)
「すぐ持ってこい!」:(00.11.16)
外交能力ゼロ:(00.10.28)
割増賃金率:(00.10.18)
短縮しやすい言葉:(00.09.30)
玩具化する携帯電話:(00.08.23)
お客様は神様:(00.08.15)
労組の役員は会社が決める:(00.07.21)
生きて虜囚の辱めを受けず:(00.07.18)
休日の会議!?:(00.07.03)
新聞の宅配:(00.06.26)
「大人」は20歳から?:(00.06.19)
富山の薬売り:(00.06.17)
宗教について:(00.06.15)
パチンコ:(00.06.03)
クラブ活動より受験勉強:(00.05.28)
2つの周波数:(00.05.24)
ストは「不可抗力」か:(00.05.21)
抗菌グッズ:(00.05.19)
為替・株式市場の報道:(00.05.18)
詰襟とセーラー服:(00.05.15)
生理休暇:(00.05.13)
手形と現金:(00.05.11)


世帯主:

世帯主という概念の問題が、ウィルス対策のための国民への定額給付金申請で表面化した。
給付金の振込が世帯主のみに一括送金される方式だったために、DVで身を隠して別居している配偶者に金が渡らないケースが判明したのである。
世帯主の規定は民法他の法律でも定義されておらず、住民基本台帳の取り扱いとして「主に世帯の生計をになっている人で、社会通念上妥当と認められる人」となっているのみ。
この概念はそもそも戦前の「家制度」すなわち家父長制の名残が戦後も引き継がれたためである。今は共働きが増えてきて次第に有名無実化しつつあるが、企業で家族手当の支給基準として世帯主であることを条件にしているところもあり、完全にはなくなっていない。
世界的には日本と、日本の植民地であった韓国、台湾に影響が残っているが、世界的には世帯主という概念そのものが存在しない。住民登録あるいは戸籍でも誰が家計を支えているかを重視するところはないのである。
日本では戦前の「家制度」のもとで夫のみが働いて家計を支えると同時に家族の支配権を握るということが制度化されていたし、戦後も自民党政権が古い家族制度にしがみついた。しかし時代遅れの世帯主制度は男女平等の観点からも廃止するのが望ましい。

夫婦同姓の強制:

裁判でも話題になっているが、民法750条によって夫婦同姓を強制しているのは日本だけ。過去にはトルコなどで強制があったが、今は憲法違反として撤廃された。唯一の変形としてオーストリアの同姓または男女の旧姓の結合姓があるが、100%同姓は日本以外残っていない。
民法750条は明治時代に制定されたのだが、当時はドイツの法律を流用しており、その頃はドイツも同姓を強制されていた。しかしドイツも含めて他国は強制を排除したために日本だけが取り残されたのである。
ただ、ユダヤ教をルーツとするキリスト教、イスラム教では宗教的慣習の歴史から、女性は夫の姓に変えることが多い。しかし法律で縛ることはなく、選択的夫婦別姓を採用しているところが多い。そして子供は父母の姓を合わせた結合姓が採用されている国もある。
よって国連の勧告通り、選択的別姓が望ましいと考える。
なお、右翼的論者から「日本の伝統」という理由で強制的同姓を支持する人がいるが、これは誤り。民法750条は明治に制定されたもので、それ以前は規制はなく、江戸時代の庶民は姓すら剥奪されていたのである。

上司に相談してから・・・:

入社してから10年も満たない若手社員が良く口にする言葉で、社外に向かって「その件は上司と相談してからお答えします」と回答することが多い。未熟だからということもあるが、上司から「勝手に決めるな」と釘を刺されているという側面もある。
だが海外に、それも欧米の相手に向かってこの言葉を発するのは最悪である。能力も権限もない低い人間とみなされるのがオチだからである。
欧米ではベテランであろうと学校を出てすぐの人間であろうと、仕事の能力は皆同じと判断されるし、就職する前にはそれだけの職業教育を受けているものとの前提になっている。
日本は入社してから専門の職業教育を会社が行うシステムであることを海外の会社はほとんど知らないから、必然的に「日本の会社は能力のない若者を雇っている」となってしまうのである。
逆に言うと、日本の若者はそういう違いを知らないまま、日本企業の間での「上司に相談してから・・・という習慣を海外に対してやってしまうのである。
近頃は大企業あたりが「即戦力が必要」と学生をあおっているが、社会の教育システムを変えずにそんなことを要求しても意味がない。なおかつ、本格的に欧米並みのシステムに変えるならば、職業の専門教育もほぼ無料でやらないと育たない。若手の教育は会社にとって負担になるなどという論理は身勝手でしかない。いやだったら税金を負担してそれを職業教育に回すべきだ。

ノー残業デー:

最近大手企業を中心に週に1回くらい、会社から定時で帰社せよという指導がやられるようになった。
こんなことをやっているのは日本だけだろう。また日本にはこうなる素地が存在する。
労働基準法では8時間労働が原則だが、例外としていわゆる「三六協定」による無制限の残業が認められている。これがILO1号条約を批准できない原因であることは有名な話。
このことは同時に低賃金を生み出す。つまり残業なしでは生活できないのである。それが次第に定着して残業は当たり前の社会が出来上がった。しかし最近は過労死を生み出す原因になっているとして、労働時間を減らす意味でノー残業デーを儲けている。
だが実効性はほとんどない。法律による強制ではないからである。法律を変えて残業規制をすれば解決するのだが、財界は猛反対、自民党も財界に逆らえないから実現は困難である。
昔ドイツにいたとき、定時になった瞬間に会社から人がいなくなった。残っているのはほとんどが日本人社員。「今日は残業せずに帰りましょう」などというアナウンスなどは必要ないのである。
残業なしでも社員は余裕のある生活、会社も国際競争力はある、そんな国は世界中どこにでも存在する。

「後期高齢者医療」:

おおよそ年齢によって制度を変える、しかも医療費に制限を加えるなどという福祉の切り下げをやっているところは世界広しといえど日本以外にない。
「予算がない」というその理由からして正常な神経ではやれないことである。しかし自公政権は見事に恥ずべきことをやってのけた。
国民の非難ごうごうの中、民主党は選挙公約で廃止を訴えたが、これがまた不思議、政権を取ったとたんに「次の制度が出来るまで・・・」という屁理屈を持ち出して廃止しなかったのである。
これもまた、公約したことを政権を取って舌の根も乾かないうちに反故にするという、世界に例のないことをやった。制度を元に戻すだけのことだから時間がかかるわけがないのである。別の制度を考えるにしても、一旦は廃止して一からやりなおしが常識のはずである。

期間の定めのない非正規雇用:

年収200万円以下の「ワーキングプア」と呼ばれる人達が1千万人を超えている状況があるが、これほどひどい低賃金を生み出す根源のひとつとして、労働者派遣法が認める日雇い派遣や期間の定めのない派遣がある。
このような無制限の非正規労働を法律で明文化しているのは日本以外にない。
EUでは正規・非正規に関係なく同一賃金が法制化されているし、「みなし雇用」として非正規雇用はあくまで短期しか認めていない。アメリカでは法律としての明文化はないものの、労使交渉でヨーロッパ同様の労働条件で合意している。
しかるに日本では逆のことが法律で認められてる。
特に最近問題になっているのが、労働者派遣法で原則派遣期間を最長3年としながら、例外として事務系の「26業種」は除外されていることである。
例えば「OA機器操作」とか「ファイリング」はその典型である。これを悪用して派遣元企業と派遣先企業が結託して派遣労働者(主に女性)が実際に行っている仕事を無視して、これら「26業種」の派遣契約書を締結し、無制限の派遣労働をさせている。
問題の根源はこの「26業種」のような例外条項を設けていることにある。よってこれは廃止すべきである。同じことは労働基準法の36条にも言えることで、残業時間無制限を許す例外条項がILO1号条約に抵触することと同じである。
いずれにせよ、低賃金・長時間労働を許すような法律は変えなければならない。

連帯責任:

これほど日本の後進性を示す例はないだろう。とにかく前近代的かつ反民主主義的な責任の取り方である。典型は高校野球。
連帯責任の持つ最大の問題は、組織としての責任と個人責任をごちゃまぜにすることで真の原因は曖昧にされ、結局誰もが自覚と責任を持たずに済むことである。従って真の解決にならず、また再発防止にもならない。
この稿を書いている日に、番組捏造事件を起こした関西テレビで社員全員のボーナスカットというニュースが流れた。
処分あるいは責任を取ると言うのなら、捏造に加担した当事者とそれを指揮監督していた責任者が負うべきものであって、関係のない人間にとっては「あいつらのお陰で・・・」という恨みしか残らないだろう。
ところで、最近「コンプライアンス制度」というのを導入するところが大企業を中心に増えつつある。だがこれも日本では妙な論理が展開されている。すなわち責任は不祥事を起こした個人にあって、会社ではないというのである。これもおかしな話で、組織としての責任を逃れるために作られている気がする。だが談合事件にみられるように、ある特定の仕掛け人がリーダーシップを取っているとしても、会社全体として談合を容認しないと成立しない。従ってこれも片手落ちの解決にしかならないだろう。

電線のサイズ:

久々の更新である。日記の方で電気屋の話書いたことで、日本の電気の規格は国際規格と随分違うことを連想したからである。その典型が表題にした電線のサイズである。
工場でも家庭でも、引いてある電線の芯線サイズはJIS規格で決められている。流せる最大電流とか銅を加工する場合のメーカーによるばらつきを抑えて統一するためである。
この芯線のサイズについては公称断面積(単位:mm2)を基準にしてある。JISでは、
  2-3.5-5.5-8-14-22-38-60-100-150
となっている。ところが国際規格であるIECでは、
  1.5-2.5-4-6-10-16-25-35-50-70-95-120-150
とまったく異なる。
こういう違いが存在することで一番困るのは、日本の電気製品を海外へ持っていった場合である。電圧、周波数、コンセントの形も問題だが、工業製品を持っていったとき、相手の規格に最も合わせにくいのが電線を繋ぎこむ端子部分で、これだけは国内向けしか作っていないメーカーが圧倒的に多く、ものすごく苦労するのである。とにかく電線がうまく繋ぎこめない。
さらに問題なのは、ケーブルそのものも客からその国の規格に合わせろと要求されると日本の製品を持ち込むことが困難になる。そこで最近は相手の規格に合わせたものを作る電線メーカーも増えた。同時にJISもIECに合わせる動きも出ている。
どうして日本の電線だけが最初から国際規格の流れに乗らなかったのかは知らないが、恐らく海外製品を日本に持ち込むことはあっても、日本製の電線を海外に売り込むことは考えていなかったためのように思える。
日本製品を単独で持ち込み、独立して使う場合にはほとんど問題にならないが、日本製と外国製を混在させて使う場合には電線サイズの違いがもろに表面化するのである。

お客様は神様・2:

過去に日本における売り手と買い手の従属関係の話を書いたが、今日、会社で度肝を抜く話を聞いた。
要するに海外契約にまでこの関係を持ち込もうとした輩がいたのである。
後輩が外国の会社との契約をどうするかで悩んでいたので聞いてみたら、プロジェクトチームから問い合わせがあった、海外との標準契約で納期遅延に対するペナルティーの標準値(例えば週当たり契約額の0.5%とかいう数値)がないかというものであった。会社として、納期遅延の項目はあっても固定された数値は存在せず、相手との交渉次第というのが決まりである。というか、うちの会社が請けた親契約と同じ数値を使うのが慣例で、親契約になければ同じく適用しない。従って回答は「標準値はない」ということで連絡しようということになった。
ところが話を聞いていると、もっと恐ろしい話が出てきた。
この「納期」の定義で、プロジェクトチーム側は何と、納期遅延の起算日を「日本到着」とせよと要求していたのである。それも機械の製作だけを依頼するだけで、輸入した後の据付は含まれていない。明らかに国際契約での常識から逸脱した買い手側の身勝手な要求である。
国際契約の取り決めとして、ICC(国際商工会議所)が制定した責任範囲の定義を記述した「INCOTERMS」というものが存在する。これはFOBとかCIFとかの略号を契約書の中に書いた場合、それが買い手と売り手の責任範囲がどこまでとなるかを、細かく書かなくても済むように標準化したものである。単純に品物を輸入する場合だと、FOB(舷側渡し)あるいは最大でもCIF(運賃・保険込み船積渡し)が普通で、船が台風で遅れたりするリスクを売り手から免責するためであり、かつ船が相手国に着くまで代金の回収ができないという不利を解消するためである。代わりに買い手側は第三者である船会社に荷物を受け取ったことの証明書を発行させることで、荷物が出荷されたことの確約を得るのである。
話を元に戻すが、今回の売り手の義務はあくまで機械の製作だけなので、それ以降の運送に関しては責任範囲でもないし、リスクも負えない。だから「INCOTERMS」でもそのような責任外のことまでをも含んだ契約そのものに関する定義は存在しないのである。
もし特約として別の条項を付け加えたいと提案しても、相手先の会社から拒否されるか、馬鹿にされるのがオチである。
「INCOTERMS」の定義は数百年の歴史を経て出来上がった国際契約の標準的なルールである。それを日本国内でしか通じない、それも力関係で一方的に売り手にリスクを押し付けるようなものが、国際社会で通じるわけがない。
長い歴史の結果として出来上がったものを、一方的な理由で破壊するような行為、そんな提案をすることそのものが恥と知るべきだ。

ホールインワン保険:

会社のコンペでホールインワンをやった人がいるらしく、関係者に記念品が配られたという。その費用は最近流行のホールインワン保険でまかない、なおかつお釣りが出たらしい。
そんな話が職場で出ていたが、誰かが「外国にも保険があるのかな?」と私に聞いた。
答えはもちろん「ノー」である。保険どころか記念品を配るなどという習慣すらない。いつ頃からこんな風習が出来たのかは調べていないので知らないが、日本だけで急速に蔓延した。何故かこういう義理の類についてはすぐにエスカレートするのが日本。そしていつからか予定外の出費をカバーする保険まで売られるようになった。
最近ホールインワン保険を詐取する事件があったが、外国の人が聞いたらどう思うだろうか。

和製英語:

和製英語というのは「ナイター」や「ベッドタウン」など、昔からある。多くの場合日本国内でしか通じないからカタカナ表記であるが、知らない人は外人にそのまま喋って恥をかくこともある。
最近私が耳にした和製英語は「アフターフォロー」と「コストインパクト」である。「アフターフォロー」は"After Service"の勘違いだろう。
「コストインパクト」は企業レベルでもっともらしく使われているが、出所は不明である。もっともアメリカ人がこれを聞いて、「お、なかなかいい表現だ」と誉めたという話もあるから、和製英語も見捨てたものではない(?)。
ひとつ言い忘れたが、最近問題になっている寄生的生活をする若者を「パラサイトシングル」と称する人もいるようだが、どうやらこれも和製英語のようだ。
もっと手が込んでいると思うのは、ポップスの歌詞に出てくる英語である。見た目はカタカナではなく、れっきとしたアルファベットになっている。文法も間違いではない。しかし英語ではない。向こうの人間には理解できない表現だからである。例えば"White love"という歌の題名。アメリカ人は「白人の恋」と解する。

バレンタインデーにはチョコレート:

バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣は日本だけのものである。
こう書くと驚かれるかも知れないが、事実である。菓子を作る会社(複数)のHPにもそう書いてある。ヨーロッパでは花やカードなど、ささやかなもの。日本ではチョコレートを作る会社のアイデアで1950年代から宣伝を開始したのがきっかけらしく、何故か爆発的に流行した。こういう全国的に蔓延する傾向はクリスマスもそうだろう。
バレンタインデーの直前だけでチョコレートの年間販売量の90%を占めるとか、クリスマスの直前には年間のイチゴ出荷量が激増するとか、日本全体が異様な行動に集中するのは何故だろう?
ところで、ヨーロッパのクリスマスを経験した私だが、あの徹底的で例外のない習慣は日本の比ではない。24日から25日にかけて会社は勿論すべて休み。さらにはそのまま2週間連続で冬休みに入ることもある。あまりにも出勤者が少ないため、いっそのこと・・・ということらしい。
そして24日はデパートや一般の商店は昼に閉店。その後次第に交通機関も便数を減らし、夕方には一切の交通は途絶える。タクシーや飛行機も動かない。小さなホテルも客を追い出してしまう。私のような単身出張者は高級ホテルしか泊まることができなくなるのである。
24日は家で家族一緒に夜を過ごし、25日はひっそりと家で過ごす。当然交通機関もこれまた動かない。従って街は死んだように静かになる。単身の身はホテル内の食堂で3食を摂るしかなく、残りの時間は寝るかテレビを見るしかやることはなくなる。
日本のようにスナックで高いシャンペンを飲み、とんがり帽子のまま赤い顔をして道を歩くことなどもってのほか、というのがクリスマス・イブの実像である。

人減らしすると減税?:

人減らしをすると減税になるというのは世界中でもちょっと聞いたことがない。しかし日本には存在する。「産業再生法」というそれである。
もちろん条文には直接そう書いていない。だから少し説明が要る。
法律上は、企業が生産性を上げたり、利益を高めるような計画を政府に提出して許可を受けると、それに伴う設備の廃却で発生する損金に対して税の減免措置が受けられるというプロセスになっている。しかしこれには裏がある。設備を廃棄する時に人を減らしてはならないとは書いていない
この法律を利用して、多くの大企業は工場などを閉鎖すると同時にその人員をわざと遠くの工場へ転勤させるとか希望退職を募って、人減らしを促進する方針を出すのである。地元に定着している人達は辞めるか転勤するか、苦渋の選択を迫られる。特に中高年は取得した住宅とその借金返済があるためにおいそれと転勤できない。そこを会社が悪用しているのである。
ウチの会社も2箇所の工場閉鎖でその手を使った。
この問題で人減らしが可能になるには、日本独特の条件も関わっている。元々労働者に転勤はあり得る。海外では日本のように土地や住宅が安く、また都市計画の関係で借家も安く提供できる。だが日本は政府の持ち家政策のために借金して高い住宅を買わされ、一旦定住すると簡単には動けない。だから余計に転勤は深刻な家庭問題になるのである。
相手の弱みに付け込むやり口は許せない。しかしそういう法律を作った輩はもっと許せない。

公務員の基本労働権:

「公務員制度改革大綱」という政府の方針が問題になっている。というのも国際労働機関(ILO)理事会が昨年、これに対して是正勧告を出したからである。だが政府はこの勧告を受け入れるつもりはないようで、国際的な批判が出ている。
労働運動に対する世界的な基準としてのILO勧告には、87号・98号条約というのがあって、労働者の基本労働権として、団結権・団体交渉権・スト権を明確に認めている。但し、軍隊と警察は除外することになっているのだが、公務員一般に適用するとは書いていない。ところが日本では両条約を批准しているにもかかわらず、すべての公務員に対しては批准以前の1948年にGHQがストを禁止して以降、基本労働権は制限されたままである。雇い主である政府はその代替措置としての「人事院勧告」をタテに、ILO通りの法律の改正にずっと抵抗してきた。
ところが最近になって、先に書いた「公務員制度改革大綱」が人事院勧告を骨抜きにして、公務員の賃金を各省庁の査定にゆだねることが明らかになったのである。怒った連合・全労連はILOにこの問題を提訴した。その結果、公務員改革の内容や進め方を批判、国際労働基準に違反する疑いが強いとして見直しを求める勧告が出たのである。
先進国で日本以外に公務員にスト権を認めていない国はない。警察にも組合が存在しているくらいである。
日本はILOの常任理事国でありながら、8時間労働を定めているILO1号条約を批准してないし、「経済は一流、労働条件はインド並み」と陰口を叩かれるなど、世界中の恥さらしになっている。

紙サイズの規格:

この話を知っている人は多いと思うが、念のため記録しておく。
紙サイズの規格は日本の場合、JIS P0138でA系列とB系列が決められている。A系列はドイツから来たものだが現在は国際規格になっている。しかしB系列は江戸時代の「美濃紙」に由来した日本独特のものである。こういう歴史の流れから役所は永年B系列を採用してきた。しかし最近はA系列への転換が進められている。
ただA系列は国際規格と言ったが、アメリカは今もヤード・ポンド法と同じく独特の10インチ×11インチに固執している。A4と微妙にサイズが異なり、ファイルやコピーは非常にやりにくい。

マスコミの「駆け引き論」、「攻防論」:

イラクの大量破壊兵器査察問題で、最近になって米英が戦争を容認する決議案を国連安保理へ提出したことを巡ってのマスコミ報道を見ていると、どうもおかしな議論へ誘導しているような印象を受ける。
というのも、仏独を中心とした戦争反対派との対立がはっきりしている中で、安保理がどういう結論を出すかの見通しを、「戦争を容認するグループと反対派との駆け引きが活発化するでしょう」という言葉で締めくくるからである。
こういう多数派工作を正面に据えた「駆け引き論」を展開することが何を意味するか、日本のマスコミは自覚がないというか、他人事で済まそうとする傾向が強く出る。
また、それと似たものとして国会での論戦を「与野党の攻防」として一くくりにする論調もある。
「不偏不党」を強調したいのかも知れないが、「駆け引き論」、「攻防論」が果たす役割は結局日和見主義かつ多数派の動きだけに注目する事大主義的でしかない。
イラク問題で言えば、戦争を容認するのかしないのかが非常に重要な点であり、どちらが正しいのか、また日本は国際社会にどう働きかけるのか、戦争を止める方向で動くのか、米英を支援すべきなのかどうかが問われているのである。
マスコミはそれに対して両論の違いをはっきりさせ、国民に問うていきながら、世論を盛り上げていく役割がある。しかし日本のマスコミはそういう百家争鳴ともいうべき活発な議論を掘り起こすような報道をせず、「どっちもどっち」的な対岸の火事を見ているような態度に終始するのである。
欧米ではそのあたりがかなり明確で、場合によってはかなり過激な論調を展開することもある。
だが日本のマスコミは態度を明らかにしないばかりか、問題点を曖昧にし、最後には権力に屈服するのである。一昨年イギリスでニューヨークテロ事件でイギリス人から私に「日本はどういう態度を取るのか」と問われた事がある。個人的には答えることが可能だったが、日本のマスコミは政府と同じく「アメリカの態度は理解できないことはない・・・」というようなわけのわからないことを口にするのが関の山だろう。

4つ切りの画用紙:

NHKのクイズ番組で「世界子供絵画展」の話をやっていたが、日本の子供の作品だけにある特徴というのをやっていた。その特徴というのは、ほとんどのサイズが小学校の図工の時間に使う4つ切り画用紙だという。
確かに私の子供の時代から小学校の図工で使う画用紙は4つ切り。文房具屋で「画用紙下さい」と言えば自動的にその画用紙が出てきた。
それにしても何故4つ切りなのか?という疑問が解けたわけではないのだが、とにかく学校ではそれ以外のサイズを見たことがない、というか私もそれ以外知らなかった。ここらあたりが画一的な日本の教育現場の典型なのだろう。
ウチの子供に聞いたが、団地の中では文房具屋はなく、あってもコープでは品数もないので、画用紙などの教材は学校で用意して配るという。これだとなおさら画一的になる。一度サイズも色も紙質も自由なものを持って来なさいということにしたらどうなるか、実験してみてはどうだろうか。

税金で紙くずを買うな!:

小泉首相訪朝で内閣支持率が上がっているようだが、その一方でとんでもない経済政策がやられようとしている。外交は成功しながら、国内経済で失敗の見本のようなことをやるようではどうしようもない。
その最悪の策とは、日銀が銀行の手持ち株を買い取るというものである。
世界中の中央銀行でこんな愚にもつかないことを思いつくところは他にあるまい。それをまた政府が待ったをかけるどころか後押しするというから救いようがない。公的資金導入の時はまだ保証がないというものの後で返却するという名目はあったが、今回は買い取ったらそれまでである。そもそも民間銀行が価値のある株を日銀に買い取らせるわけがない。どうせ紙くず同然のものを渡すだろう。そうなると民間銀行の不良債権が一気に解消され、日銀は国民の税金を使って焼却炉にしか行き場がない株券を手にするのである。例えれば、こどものおもちゃの紙幣を大人が本物のお金で買ってやるのと同じ事である。
発展途上国でもこんな恥さらしはやらないだろう。やったらクーデターものである。それを先進国の政府がいかにも真面目な顔をして実行しようとする神経には寒気がする。もう一度言う、税金は紙くずを買うためにあるのではない!

寄生虫を育てていいのか?:

先日ニュース番組で女性専用フロアを作るテナントというのをやっていた。1フロア丸ごと女性専門店にして、客も女性だけにするという。
明らかにターゲットは若い娘である。インタビューでは「女性は金を持っていて需要が大きい」とのこと。さて、ホンマかいな???というのが私の印象だった。それで裏付けを取ろうと友人に聞いてみたら、いとも簡単に「ああ、それは日本独特の現象さ」と言い、ちょっと解説してくれた。
長引く不況で確かに庶民の懐は冷え切っている。若い女の子が学校を卒業してもろくに食えない。そこまでは私も納得した。ところがである。彼女たちの食い口はどうなっているかというと、実は親がすべての面倒を見るので、アルバイトであろうと定職であろうと、すべて本人の小遣いになるというのである。それも年とともにその傾向が強まっているので、当然購買力は上がるというごく自然な成り行きとのこと。
私と同世代の友人は、私と違って世間の平均だから、そろそろ成人する子供を持っているのでその実態をよく知っていた。ただ、彼自身は「学校を卒業するまでは親の責任。あとは知らん」というポリシーを貫いていて、卒業の前から高らかに宣言しておいたという。
だが、世間の平均はそうではないらしい。
数年前に私も日記の中で、寄生的生活をする若者と、それを唯々諾々と容認する親の話を書いたことを記憶しているが、それはまだ続くどころかさらに進行しているらしい。
結論的に書くが、若者に寄生的生活をさせるのは日本の将来にとって非常に有害である。決定的なのは自立心を欠落させ、自分達の未来を失敗しながらでも自らの力で切り開くという訓練の場を奪い取るからである。それと、もしも宿主の親が亡くなったら・・・という事態に耐えられず、おろおろするだけの人間を育てることになるだろう。わがままでかつ依存心だけは高い、などという若者、いや、顔だけ一人前の中年がうじゃうじゃいるような社会など、想像するだけでもおぞましい。
この問題は既に商売に結びつくようなレベルに達していることから、もはや少数派とは言えない状況になりつつあると見るべきだろう。それも原因を作っているのは大人の方である。確かに不況が若者の職を奪っている問題はある。だが、日本以外のどこの国でも「自立しなくてもいいよ」と、意図的であろうとなかろうと教えている民族は、日本以外で見たことも聞いたこともない。我々人間はあくまで人間を育てているのであって、寄生虫を育てているのでない。

日本政府は定年退職者に対して追い剥ぎの役目をする:

長いタイトルになったが、要するに年金問題である。
年金法の改悪で、支給開始年齢が順次引き上げられ、2013年度には60−65歳の間は年金が貰えなくなる。このことが今どういう現象を引き起こしているか、実態を明らかにしたい。
ご存知のように多くの企業では60歳定年が主流である。しかしこの年金問題をきっかけに定年延長の動きがあるかといえば、それはまったくない。この不況が大きな理由でもあるが、では好況になたからといってそうやすやすと経営側が受け入れるとは思えない。そもそも定年延長をしなければならないという法的強制力がない現状では、労使による力関係だけで決まる問題だからである。「年金の改悪は政府が勝手に決めたこと」と、企業の社会的責任を顧みない経営者もいる。だいいち60歳を過ぎた高齢者に対する需要がそうそうあるはずもなく、結果として悲惨な事態が進行している。
今、大企業を中心に定年延長とは似ても似つかない現象が起こっている。「再雇用」という名ばかりの高齢者いじめが蔓延し始めているのである。例えば東芝では「希望者」を55歳で定年扱いし、子会社で改めて雇用する。この時点で給与は7〜8割に下がる。60歳になるとその後は1年更新の契約(給与はもっと下がる)になり、会社が「いらない」と言えばそれでおしまいである。要するに会社側だけに雇用する・しないの権利があるのである。
昨年マスコミでも取り上げられたNTTはもっとひどい。50歳(!)で子会社に行くか、給与の大幅ダウンか、どちらかを選べという「悪魔の二択」とでも言うべきことをやったのである。
先に述べたように、高齢者に対するこういう仕打ちに対しての歯止めはまったくない。そしてこの原因を作ったのは他でもない日本政府なのである。
政府に金がないからといって、弱者から身ぐるみ剥いでおいて、後は知らん顔をしているというのは追い剥ぎの論理でしかない。素っ裸にされ、路頭に迷っている浮浪者を二束三文で買い叩くヤツがいるのもこれはこれで問題ではあるが。
今はどうか知らないが、20年前に私がドイツに滞在していた頃は60歳を過ぎたら年金を貰える権利が発生し、働きたい者は働き、リタイアしても個人年金を含めて同じくらいの収入が確保できた。そこには高齢者に対する「ご苦労様でした」という思いやりがあった。日本では生まれ、育ち、老いていくことすべてが「個人の勝手」になっている。社会を支えているのは誰なのか?という観点が、日本と他国とでは180度違うのである。

自動連結器:

ここしばらく批判的な内容ばかりだったが、今回は世界に誇る技術を紹介する。
時は今から70年以上前、国鉄は1925年(大正14年)7月1日から10日間で客車全車両を、同17日には貨車全車両を一夜で旧式の連結器から自動連結器に交換した。まだそんなことはどこの国でもやっていなかった時代である。またこのような一糸乱れぬ集団行動は日本人らしさを最も発揮していると言えるだろう。
本当はこの他にも狭軌を新幹線と同じ標準軌にする計画もあったのだが、これは実現しなかった。
ヨーロッパでは今でもスクリュー式と呼ばれる手動の連結器が多く使われている。スクリュー式は連結作業中に緩衝器(バッファ)の間に人間が挟まれる事故が多いので本当は交換したいのだが、大陸を縦横無尽に走る列車の連結器を一夜にして交換するなどという人海戦術の塊みたいな作業はもはや不可能に近い。そういう点では日本の鉄道には先見の明があった。日本の鉄道技術は新幹線といい、非常に発達した。逆に言うと狭い国土で大量輸送をするには他に方法がなかったのである。しかし戦後は石油を買わされ、モータリゼーションの推進など国策の犠牲にされてしまい、さらには分割民営化によって、儲けになる新幹線とか幹線以外は見捨てられようとしている。高い技術を維持するためにも、単位面積あたりの輸送効率が最も良い鉄道をもっとテコ入れすべきだろう。

賃下げを要求する労組:

今年(2002年)の春闘は出口のない不景気の中、労働側にとって非常にきびしいものがある。業界によっては賃上げ要求をしないところも出ている。しかし実質的な「賃下げ」要求を出した組合というのは史上初めてではないか。
問題の労組は「シャープ」労組、ことのいきさつはこうである。
最近大企業では業績給を導入するところが増えている。シャープも2000年からボーナスに業績連動、すなわち会社の利益によって金額が上下する制度を入れた。こうなると計算式によって自動的に算出されるからボーナスに対する労使交渉は必要なくなる。それでシャープでは2001年度の利益が大手電機の中では飛び抜けて良く、計算では2002年に約5ヶ月分がボーナスとして支給されるという結果になりそうである。ところが会社は突如として今春闘からボーナスの業績連動を見直し、労使交渉方式に戻すと言い出したのである。何故か。
大手電機業界はIT不況の影響であまり業績が良くない。従って電機連合加盟組合の多くが5ヶ月分以下のボーナス要求であり、最終的にも4ヶ月程度で決着するだろうと言われている。ところが前述のようにシャープは自動計算だと5ヶ月と同業他社より高くなる。このことに気付いた会社側は意図的に自動計算をやめ、交渉によって4ヶ月程度の横並びにさせようという狡猾な作戦に出たのである。
こういう身勝手な会社の朝令暮改を労組として断ることもできたはずである。しかしシャープ労組は会社提案を受け入れ、5.22ヶ月の「要求」を出した。
これで会社は安心して「交渉」ができる。実際にはあり得ないと思うが、「ゼロ回答」も可能になったわけである。いきさつから考えて労組は賃下げの可能性を察知できたのにあえてしなかった。ということは会社が狙う賃下げに労組が片棒を担ぐことと同じことになったのである。普通ならこういうトリックはすぐにばれる。それを知らなかったと言い逃れできる性質の話ではない。だから私は「賃下げを要求する労組」と書いた。これは組合関係者だけでなく、世界中の笑いものになるだろう。「大字林」で「労働組合」を引いたらこう書いてあった。
「労働者がその労働条件の維持・改善、また経済的地位の向上を(下線は筆者)主たる目的として自主的に組織する団体」

採用通知:

初めに断っておくが、「採用通知」そのものが日本独特のものということではない。問題なのは雇用にあたってそれ以外のちゃんとした労働契約書を会社と個々の労働者との間で交わすということがほとんどないということである。私自身もそうだったが、採用通知を受け取ると同時に給与とか勤務地など大雑把な説明があったきりで、折り返し誓約書を出してそれでおしまいだった。大多数の人は似たような経験をされていると思う。あるいは小さな会社だと面接の後「明日から来てください」という口約束だけというのもあるだろう。
法的にはもちろん口約束でも労働契約は成立したものとみなされる。だが通常の場合、入社する前でも後でも具体的な労働協約・就業規則を会社から積極的に見せられることはまずないと言ってもいいだろう。甚だしいのは就業規則などというものが存在することさえ知らない労働者がいることである。就業規則は会社と組合間の、組合がない場合はそれに代わる従業員代表との間で合意することを義務付けられている(法文上は「労働者の意見を聴くこと」となっている)。だが組合のない中小企業などでは会社側の人間、例えば部長である社長の親戚が従業員代表として勝手に就業規則が作られ、金庫に眠ったままになっているケースもあるという。
ともあれ雇用する前に就業規則を見せられた上で労働契約書を交わすということは日本では非常に稀なのである。欧米では常識のこういう手続きがちゃんとなされないということは、労働者の立場を弱める。何故かというと会社、労働者双方の権利義務がはっきり明示されないために、後で「言った、言わない」とかの解釈めぐって問題が表面化したり、不当労働行為がはびこる温床になりやすいからである。
考えれば変な話で、いかなる契約といえど、簡単なものであっても一応は合意文書を交わすのが一般常識である。本来なら会社と労働者も対等の関係で雇用契約を結ぶのであるから合意文書があることには何の不思議もないはずである。ところが永い労働慣行として日本では一片の「採用通知」で済まされることが多いのである。このようになったいきさつの詳細については知らないが、労働組合としてもこの点を問題にするところはとんと聞いたことがない。

憲法を常に敵視する政権党:

今年(2001年)の8月の日記で戦争にまつわる私の意見をまとめて書いたが、それに関してあちこちのサイトを調べたりしていたら不思議なことに気付いた。
それは現憲法が制定の前後を問わず政権党によってずっと反対・敵視され、今もずっと続いているということである。こういう現象は歴史上かつてないことのように思われる。
彼らが常に口にする「押し付け憲法論」は、もちろん制定に当たってアメリカの圧力がかかったことを理由にしているわけだが、憲法改正を標榜しつつ、かつ政権を握っているという矛盾がこれだけ続いているというのはちょっと世界中でも例がないのではないか。もしご存知の方がおられたら教えていただきたい。
こういうことが起こった原因は、敗戦後の憲法案が戦争を起こし、それを反省しない勢力で作られたために当然のごとくアメリカの反対を受けたことに発するのだが、その後の新憲法下での選挙でもそういう憲法を敵視する勢力が多数を占めることになったためと思われる。ただ、実際に今日まで改憲が実現していないのは具体的政策についての国民の審判が政権党に多数を占めさせるということではあっても、憲法を変えるということまでには国民の合意ができていない、あるいは改憲を打ち出すと選挙に負けるので控えている、ということなのだろう。
しかし彼らが現実に出す政策や法案は、必然的に憲法を守るという精神からは離れるし、戦争協力法とか盗聴法などいくつかのものは明白な違憲性を帯びる事にならざるを得ない。それはまた私が何度か指摘したことのある民主主義の発展という問題でも顕著に出ている。

アルカリ性食品:

私も最近知った話なのだが、アルカリ性食品・酸性食品の分類とともアルカリ性の方が体にいいとかいうのは、栄養学的には俗論だそうで、ちゃんとした本では取り上げられていないそうである。おまけにこんな分類が大手を振っているのは日本だけだという。詳しい裏付けがあるわけではないが、どうも宣伝のための誇張された話がこの俗説を広めることになったようだ。
アルカリ性・酸性というのは食品を燃やした後の灰の成分から来ている。しかしこれが健康にどう影響を与えるかと言う点についてはまったく不明ということで、どこでどうすりかえられたのか不思議に思う。
ただ、医学的にはアルカリ性食品が尿のアルカリ化を助ける効果があるようで、痛風のような尿酸値が高くなる病気の治療のために医者が推奨することはある。

列車ダイヤ:

この話はつとに有名だから多くを説明する要はないだろう。とにかく日本の列車ダイヤは非常に正確に運用されているということだ。
日本以外ではまず5分や10分の遅れは当たり前、おまけに乗客からのクレームはよっぽどでないと聞かれない。これに対してダイヤの正確さは日本が誇ってよいもののひとつである。
日本人の仕事の緻密さ丁寧さは世界に知られているのだが、このようになった原因はどこにあるのだろう。それが日本人の性格といえばそうかも知れぬが、こんなことが原始の時代から続いていたということはあり得ないだろう。それなりの時代背景が重なり合ってできたのだろうが、浅学の私には分析する力はない。
ところでヨーロッパでは列車の遅れと言えばイタリアが有名、30分は間違いなしと言われるくらいである。あるイタリア人に「それじゃ最初から時刻表は30分遅れで書いたらどう?」と冗談半分に言ったら、それから更に30分遅れるから意味がないと真面目な顔をして答えていた(笑)。
それから日本人の丁寧さというか律儀さを示す事実としてこんなことがある。
飛行機が離陸をする寸前、滑走路の端で一旦停止をするのは日系の航空会社だけである。もちろん社内ルールとして決められているのだろうが、他の会社で一旦停止をするというのは経験がない。管制官から離陸許可が出たら後は機長の判断でどう離陸してもかまわないはずだが、こういうところにまで気を回すのは日本人だけだろう。

PCの世界でも・・・:

ご存知のかたもおられようが、ファイルを圧縮する形式でLHA(拡張子はLZH)というのがあるのだが、これは日本人の作である。吉崎栄泰という名前のお医者さんが1988年に発表して以来、日本国内では爆発的に広まった。
圧縮率も良く、私はDOS時代に発表された当初からの愛用者である。とにかくテキストファイルなどでは30%くらいにまで縮んだ。Windowsになって以降はDOS形式のLHA.EXEをMiccoという方がライブラリ化して現在のUNLHA.DLL(32ビットはUNLHA32.DLL)になっている。
これだけの優秀作だから世界的にも評価はされているのだが、残念ながら実際に使われている例は日本以外ではまず見られない。私個人でも海外からLZHファイルを受け取ったことはなく、またその存在を外国人数人に聞いてみたが、誰も知らなかった。
やはり世界レベルではZIP形式があくまで主流である。
このようなことになる背景には、Windowsになってからライブラリでなくちゃんとした英語版アプリケーションが作られていないためではないかと思う。ZIPにはWinZipという一人立ちしたソフトが存在する。また若干マイナーだが、RAR形式のものにはWinRarというものもある。LHAに対応した国内のソフトで有名なものと言えばLhasaあるいはLHMeltだろうが、これらはまだ世界へ向けて広がる可能性が見えていない。
日本国内ではNECのPC98のシェアが飛び抜けて高い(過去の話であるが)とか、MOがやたら売れる、というような同様の現象がPCの世界ではたまにあるようだ。

謝罪:

昨日(2001.03.04)のNHKTVで、アメリカで起きた自動車タイヤのリコール問題が取り上げられた。
タイヤがバーストして横転、死亡事故になった例が複数発生していることが明るみになって、原因がタイヤにあるのではないかということから話が発展し、ついにはメーカーのファイアストン社(ブリジストンの米子会社)が謝罪とともに約650万本のタイヤの自主回収をしたというものだ。
この際、ファイアストン社は「原因は調査中で、わが社にあるとはっきりしたわけではない」としながらも謝罪とメーカー負担での回収を行なった。日本ではまず考えられない行為だが、米議会の公聴会でこの問題が審議されて、これがまた新たな疑惑を呼んだのである。つまり「非を認めたのに、原因がはっきりしないというのはおかしい。何か隠しているのではないか」という猜疑心を生み出したのである。これもまた日本ではとても想像できないことである。
それと対照的に、問題のタイヤを使用していたフォード社はどいう戦術に出たか、共同で原因究明をしていたのに何と公聴会で「わが社に非はない」と主張したのである。
私としてはどちらが正しいやり方なのか、ちょっと判断に苦しんでいる。というのもその後、ファイアストン社はタイヤの空気圧を上げるべきだというキャンペーンを張り、フォード側もファイアストンに対して空気圧を上げてタイヤを納入するように指示しているからである。
また、いわゆる危機管理の問題であるが、両社共に明らかなマスコミ・ユーザーに対するイメージ戦略を巧みに使っていて、原因は一体何なのかということがややぼかされている気がするからである。
しかし、「まず謝罪ありき」という日本的発想がどこでも単純に通用することはありえないということははっきりしている。以前の「日記」で、「日本には謝罪はあっても、危機管理がない」との批判があることを紹介したが、日本では問題を曖昧にしたままにして、ひたすら頭を下げればいいという風潮が強すぎる。なおかつ謝罪しておきながら後ろを向いて舌を出している例が多いのも事実である。雪印の社長が平然と「私は寝ていない」と居直るのもその典型で、まだまだ原因の徹底的究明とか、そのための情報公開という観点は弱いのが現状である。頭を下げておけば多少は怒りが緩和されるだろうという打算がもはや通用する時代ではない。
だが、その一方で自らの立場を正当化し、他人に責任を転嫁しようとするフォードのような態度ももうひとつ釈然としない。多分アメリカ社会に見られる「何でも訴訟」という風潮に対する保身から来るのだろうが、「申し訳ない」とはなかなか言えないのも問題だろう。個人的経験だが、先日イギリスのある会社から"apology"(=謝罪)という言葉の入ったファックスを貰ったが、アメリカの会社からは口頭でも文書でもこの言葉を受け取ったためしがない。またフランス人も少しその傾向があって、以前パリのオルリー空港からエール・フランス機に乗ったとき、機体の故障ということで出発が遅れる案内で、最後に「これはエール・フランスの責任ではありません」という一言を聞いたときは、私もやはり日本人、ムカッときた思い出がある。

「謝罪」について、やや歯切れの悪い結論になった。ところで例の「えひめ丸事件」ではアメリカ側がしきりに「謝罪」という言葉を口にしているが、日本側の心理を良く心得ているようである。日本政府としては特にシビアな要求をしないのであるから、遺族の怒りをどう静めていくかということにのみ集中できるから楽なものだ。

経費節減、どこから手をつける?:

これはさる専門誌に出ていた本当の話である。
ある日本企業がマレーシアに現地法人を設立した。しかし、一時的に経営が苦しくなった時があって経費節減をしなさいという方針が出された。具体的には日本でも良くやるタクシー代とか接待費の節約とともに文房具などの買い入れも少なくした。
ところがこれをきっかけに社員が次々と辞めていった。日本から派遣されていた役員はその投稿記事で非常な驚きをもってこの事実を書いていた。確かに日本ではごく当たり前にやられることが何故通用しないのか、不思議に思えただろう。
しかし手品の種はすぐに明かされた。辞める理由は「文房具までケチるようになった会社は危ない」からだった。
勘のいい人ならこれだけで理解できるかも知れないが、やはりちょっと説明がいるだろう。簡単に言うと、大きな資産などは既に処分してしまっていて、ついには金額のしれている文房具まで節約しないといけないほどに赤字がひどいからだ、と社員に理解されているのである。
日本では会社の資産を処分したり役員報酬を削る前に、まずこういったみみっちい経費削減を先行して実施することが多い。株主とか対外的には事態を小さく見せると同時に、社内にはいかにも大変だと危機感をあおるために使われるのであって、実際の金額的な重みはさほどないのである。
ところがマレーシアでなくても海外ではまず経営陣の入れ替えとか、資産の処分がまず優先される。というのも経営が苦しくなった責任はまず役員をはじめとする会社側が取るべきである、それでもだめなら人減らしや現場に必要な経費に手をつける、という手順を取るのが常識になっているからである。マスコミで海外の企業が大幅な人員削減をやったとかいう報道をやるが、実際には経営責任を問うような対策が平行して実施されているのが普通で、その部分を抜いて伝えらていることが多い。明らかな片手落ちである。
私の会社でも現在赤字の幅が大きいというということで色々な対策が取られようとしている。もちろん大規模な人減らしもある。その一方、創立記念日の記念品を廃止したり、永年勤続表彰の制度を凍結することも打ち出された。しかし職場では、「ケチ臭いことして社員の士気をそぐようなことすんな。その前に大金を貰いながらタダメシを喰っている顧問などがゴロゴロいることのほうが問題だ」という声も出ている。

「日本流」ワークシェアリング:

「日本流」という言葉を使ったのには理由がある。
海外から言葉とか手法を日本に取り入れる際、そのもとになっている考え方とか行動が似ても似つかないものに変質してしまうことがある。例えば「QC」という品質管理の手法がアメリカから導入された時、作業を分析してその要因をどう合理化し、品質とコストを管理していくかという根本問題はそっちのけで、ひたすら作業者を「QCサークル」という集団に参加させることが主目的になった。おまけにミーティングを時間外にやらせるというサービス残業のはしりにもなったのである。品質管理が労務管理に変質したのだ。
また、「リストラ」だって、組織や生産設備の総合的な再編(もちろん人間も含む)ということが眼目だったはずが、今では人減らしと同義語になっている。日本ほど経営が苦しくなったときに人減らしを最優先させる国はない。

さて、話を元に戻そう。
ワークシェアリングの基本的な考え方は、
労働者ひとりひとりの労働時間を短縮することによって、全体としての雇用者数の確保を目指そうとする考え方。
いわば、仕事の分かち合いを行おうとする考え方
なのだが、
日本の財界・経営者層は「就労時間を減らし、その分の賃金を下げて雇用を維持する方法」として積極的に推進しようとしている。つまり総労務費はビタ一文増やさない、あわよくば下げることさえも狙ってこの「ワークシェアリング」という言葉を使っているのである。そこにははなから社会全体でどう失業問題に対処するかという視点は欠落している。
よく引き合いに出される話だが、これと対照的なのはフランスの週35時間法制である。昨年(2000年)から実施された法律は、週35時間労働を実施すれば政府からの社会保障費の援助が出るというものである。もちろん経営者側は反対した。しかし社会全体として失業問題を解決しないといけない、という国民的な意思が法律を成立させたのである。
確かに実施直後は一時的なコストアップを招くだろう。しかしそれは合理化、生産性向上でいずれ帳消しにされるはずである。資本主義の世界では激しい競争で連日コストダウンにしのぎを削らないと企業は生き残れないのだから。
ともあれ、5%すれすれで推移している日本の失業率をどう解決するのか、一方的な議論を避け、国民全体でどう負担していくのかを真面目に論議し、結論を得ねばならないだろう。

春闘:

(※まず最初に、本稿は大晦日にアップしたのであるが、特別な意図はなかったことをお断りしておく。テーマは以前から準備しており、いつ書くか迷ったあげく、よりによって年末年始の休み中にやっと落ち着いて書く気になっただけである。)

春闘というのは1955年から始まった。諸外国にはまったくない習慣で、国内でもそれ以前には季節を定めてやることすらなかった。春闘をやるようになった経緯はここでは省く。
春闘方式そのものに対しては別段批判されるべきものがあるとは思えない。逆にある意味では合理的である。つまりだらだら交渉を続けたり、いつ賃上げ要求が出るかわからずに準備に手間取る、などといった無駄な時間が省けるからである。
ただ、最近は次第に形骸化する傾向が強まっており、「管理春闘」とまで言われるようになった。結果、労働側は、それも連合系は、ここ10年以上も連戦連敗している。鉄鋼労連などはついに「隔年春闘」という賃上げ要求を放棄するに近いところまで来ている。
春闘がこういうことになった理由は、上記の特徴が逆に作用したのではないかと思う。つまり諸外国のように賃上げをその時々の要求によってやるとなると、組合側では組合員の強い要求として上がってくるのが根本にあり、それでストまで含めた非常に強い取り組みがやられる。また経営側ではいつ要求が出て来るか事前に予想するのが難しくなるので、常に緊張感を必要とするのである。
ところが春闘方式では春闘の時だけに集中すれば良い。ということは春闘の形骸化は主として労働側の責任が大きいとも言えるのではないか。特に経営側に対して「ものわかりのいい」組合では要求がいつも遠慮がちになり、組合員の支持も得られない。今はこういうことの繰り返しになっているような気がする。

反省も教訓もない「会計ビッグバン」:

最近経済紙などで「会計ビッグバン」という言葉が使われている。今年4月から企業の決算報告書など会計書類に対する国際基準が本格的に適用されることになったためである。
企業経営者自身も使っているこの「会計ビッグバン」という言葉、今迄とは180度違うやりかたで会計報告を作らないといけないので、「ビッグバン」という表現を使っているようである。
具体的には企業グループとしての連結決算、キャッシュフロー(入出金)の公開、などであるが、この国際基準の基本的観点として「情報公開」が底流になっている。
そもそも会計報告の国際的基準を決めようという動きは1973年から始まっていた。それが各国政府も参加して一定の法律の整備もしようという方向が出てきた。そして日本では今年3月の決算期を手始めに順次新しい基準を施行することになったのである。
この新しい基準については日本企業が最も消極的だった。というのも日本の経営者は自らの責任が問われかねない利益隠しや損失隠しを言わば日常的に行っており、「情報公開」は最も忌み嫌うべきことだったからである。山一證券の事件はそうした隠蔽工作を白日の下にさらけ出した典型であった。
ところが最近になって日本の企業が出した決算報告に対して、海外で「信用に欠けるもの」とコメントがついたりしたので、国際基準による報告書を出すことがもはや避け難いものになってきたのである。
ただ、国際基準による評価が、猫の目のようにクルクル変わる「博打資本主義」を助長するとの懸念も指摘されているが、やはり「情報公開」は国際的流れであり、日本でも「株主代表訴訟」に見られるように、経営者の責任を厳しく問う傾向はもはや後戻りを許さないというところに来ている。
しかしである、この「会計ビッグバン」という言葉にはそういう国際的流れとか、今迄日本の多くの企業がやってきたことへの真摯な反省と今後に生かすべき教訓は何かという問題は完全に伏せられ、何か黒船が来たとか天災のようにこの問題を認識しているという傾向が表現されている。俗に言う「えらいこっちゃ!」という嘆きにしかなっていないのである。
こんな言葉を使っている限り経営者がみずからの姿勢を正すとか、旧態依然の経営方針が改善されるような方向は見えてこない。これでは海外からの日本の企業に対する不信感は改善されないだろう。

問題からの回避:

学生へのアンケートで、授業中にiモードでメールをやりとりすることについて「他人に迷惑がかからないなら何をやっても構わない」という回答が半数近くを占めたそうである。私語が減ったかわりにメールが増えた、ということらしい。
しかし授業とまったく関係ないことをやることについて、他人に迷惑がかかるとかかからないとかいう問題の立て方そのものが筋違いのように思えるのだが、どうだろうか。
こんなところにも海外の学生とはちょっと異質な現代日本の学生気質が見え隠れする。
海外からの留学生が異口同音に「日本の学生は遊ぶことや食べることばかりで勉強しない」と言う。そしてそれはますますひどくなるようだ。
もちろん私が学生の頃、授業中に居眠りをしたり出席を取った後にこっそり教室を抜けて友人と喫茶店に行くなど悪いことは結構やった。先生のほうも対抗手段として居眠りする学生の横で教科書を読み上げたり、出席は授業の最後にするなど、それなりの攻防戦があった。
それと学生の方には単位を取らないと卒業できないという必然性もあり、基本的に授業をサボったりボイコットするのは「後ろめたいこと」という認識があった。それと面白くない授業に対する、歪んだ形ではあるが、反抗の態度という面もあったと思う。それは先入観に近かったとはいえ、学生は学校で何かを身につけて卒業すべしという目的がある程度見えていた。中には立身出世を目指した人もあるかもしれないが。
しかし「他人に迷惑がかからないなら何をやっても構わない」という意見は、授業そのものをどう捉えるのか、授業が面白いのか面白くないのかという根本的問題に正面から答えていないと考える。そこには学生として何が義務か、何が権利かという自覚が頭から消えている。非常に厳しい言い方だが、今の学生、なかんずく若者にある虚無的傾向が如実に出ているように思う。
少なくとも日本以外にはこのような学生の傾向は有り得ない。開発途上国の学生なんかは自分が将来の国を支えて行くんだという意気込みで瞳が輝いている。他の先進国でも、一部に問題を抱えているケースもあるがごく少数派であり、半数が学生としての自覚と問題意識を失っているというようなことはない。
今の学生・若者にある「他人に迷惑がかからないなら何をやっても構わない」という考え方は、乗り物の中での化粧や携帯電話(iモードを含む)にもあるようだ。そりゃ原則としてはそうだが、現実に見えている「自分」とは本人とその周囲数十cmの範囲内のことだけであり、他人から見ればプライベートをわざわざ剥き出しにしているだけでしかない。他人との接触をできる限り避け、自分だけの畳1畳の世界に閉じこもって「煩わしい」問題は回避しようという態度は残念ながら賛成しかねる。
こうした学生・若者の傾向は、当然我々大人も責任を負うべきところがある。
何といっても現在の教育行政に最大の問題があるだろう。「個性」と言いながら現実には金太郎飴のような人間を求めている感じが拭えない。個々の問題にこれ以上立ち入るわけにはいかないが、学ぶことの目的や、自分でものを考える力を伸ばしていくという面はすこぶる弱い。それが故に子供たちは自分の役割、人生の目的を持てずに迷っているというのが実状のようである。目的意識がなければ問題意識も生まれない。子羊達は何に迷うべきかで悩んでいる。

「すぐ持ってこい!」:

某イタリアの大手企業と会議をしていたら、こちら側の人間が「日本では客の要求に即座に応えるために多くの修理用部品をメーカーがストックしている」というので相手は驚いていた。
日本の場合、機械が故障したら「取り替え部品を持ってすぐ直しに来い!」というのがザラにある。納期がかかるので待って欲しいと言おうものなら罵声が飛び、ひどいのは社長にまで密告されるという仕返しを受けることさえある。
「お客様は神様」という思想がアフターサービスの世界にまで浸透している事実は、外から見るとやはり異様に感じる。そのことをこちら側の人間に説明したら「信じられない」という。それで「そんなのは日本の常識かもしれないが、あちらじゃ別に気にしないこと」と何度も説明することになった。
人命に関わるような緊急事態といえど、冷静に判断して正しい対応を考える時間的余裕を与える、というのが欧米ならずとも合理的な考え方。もし緊急を要する場合は、電話やFAXなどで事実関係を正確に伝え、事態の緊急性を細かく説明する。彼らも納得すれば手を尽くしてくれる。
一度こんなことがあった。金曜日の夕方に緊急の用件が発生して、アメリカの会社に技術者を寄越すようにE−Mailを打った。返事は時差の関係で日本時間の土曜日にならざるを得ないと思ったので、自宅の方へ連絡するように書き添えておいたのである。ところが結果として返事は来ず、やきもきしながら月曜に出社したらいきなり電話があって「今大阪にいるから、どこへ行ったらいいの?」と派遣された技術者がのたもうたのである。
何でもかんでも怒鳴ればいいというものではない、ということをこの事実は教えてくれる。
それと無駄なストックはコストがかかる。使わなかったら不良在庫になって朽ちていくだけである。また悪質な客は修理をして代金を請求したら、あれこれ屁理屈を並べて支払いに応じない。これまた「お客様は神様」で泣き寝入りさせられる。
やや話が違うかもしれないが、「カンバン方式」というのも「すぐ持ってこい!」の変形ではないかと思う。「カンバン方式」は下請けにストックを持つリスクを負わせると同時に、小分けにして納入するので流通費が嵩む。これらに要するコストは殆ど下請け側が負担するのだが、業界全体で考えると生産性はあまり上がらない。
結論的に言って、「すぐに持ってこい!」は無駄なことが非常に多い。新幹線で往復8時間、客側でのスイッチ一つの入れ忘れを指摘して5分で解決という例さえある。力関係だけのゴリ押しで済ます時代はもう終わりにしたい。

外交能力ゼロ:

すごい話が出てきた。日朝外交交渉中での公開されていない話、それも非常識な発言が公になったのである。
結論的に言うと首相をはじめ日本政府の外交能力は「ゼロ」である。
民間でもそうだが、そもそも交渉中の発言は結論が出たものあるいは文書で残すもの以外は、交渉途中でその経過を関係者以外に話すことはない。双方の事情やその場での雰囲気を尊重し、余計な憶測や横槍を防ぐためである。
それを交渉当事者から第三者に暴露されては相手が窮地に追い込まれることさえある。こんなことでは北朝鮮が日本政府を交渉相手として認めなくなっても仕方あるまい。
それから、「行方不明者を第三国にいたことにしてはどうか」というアイデアも低劣極まる。
外交問題というならそれなりの道理と説得できる内容がなければ相手は同意しない。今回の場合、拉致事件の真相をはっきりさせて相手側の不法行為を認めさせる必要がある。ところが拉致事件の事実関係は残念ながら状況証拠としてはいろいろあっても犯人を絞り込めるほどではなく、「疑惑」としてしか追求できていない。それを事実関係を抜きにして、まるで土下座するような方法で行方不明者を返してくれという提案をしたのである。国際取引の場でもそういう土下座的提案をした人間は「恥さらし」として即座に交渉メンバーから外されるだろう。
普通の神経では考えられない発言をし、それをまた恥ずかしげもなく他人に喋る首相というのも聞いたことがない。日本はまた外国から馬鹿にされる。
湾岸戦争が始まる前、日本の政府は世界の誰からも相談を受けることがなく、テレビ中継を見ているしかなったという話はあまりにも有名である。今回の問題はまたもやそういう外交能力ゼロの証拠を世界に提供した。

割増賃金率:

日本の長時間労働・低賃金という一般的な話はあちこちに書かれているので、あまり触れられることが少ない時間外労働に対する賃金の割増率について書く。
日本は労働基準法で時間外労働(いわゆる「残業」)に対しては25%以上の割増賃金を払うことと決められている。これはILO条約と同じ水準なのだが、国際的レベルの実際は、法定あるいは労働協約によるものを含めて、50%というのが圧倒的に多い。これは所定労働日の場合であるが、休日となると日本での実態は25%から多くても30%に対して、諸外国の多くは100%である。
日本で残業が多いのは、基本給が安いので残業しないと食えないことと、企業にとっては残業で多少の負担は増えても売り上げ・利益は増えるからである。逆に割増率の高いドイツなどでは残業させるよりも人を雇った方が安くつくという逆転現象が起こり、失業率を抑制する効果があるという。
現在のILOをはじめとする国際的潮流は「時短」であり、それを下支えするための経営者への「罰金」的性格として、割増賃金が存在する。しかし日本ではそれに逆行するように「サービス残業」という名のタダ働きや過労死が横行し続けている。

短縮しやすい言葉:

日本語と言うのは実に独特の言葉であるらしく、七五調とかもそうだし、言葉を縮めて表現できるというのは他にない。特に最近は短縮語が氾濫している。曰く、「リストラ」「県警」「ソ連」・・・探せばいくらでもある。
そして気づいたのだが、多くは3あるいは4文字である。これは七五調とも関係するかも知れないが、私は言語学者でもないので詳しいことは解らない。
以前日本語は「ウラル・アルタイ語族」として分類されていたのだが、最近は捨てられている説だそうである。確かに韓国・朝鮮語と同じく主語+述語+動詞という配列であり、似た言葉も多い。「準備完了」という単語は発音も全く同じである。しかし厳密に言うと違う言葉だそうである。
しかしこの短縮語、時として当事者しかわからないものも存在する。例えばある主婦が作っているホームページで「フリマ」という言葉が連発されていた。それで続けて読んでいてやっとわかったのだが、「フリーマケット」の意味であった。別に非難することではないが、最近「メルマ」とかますます増える傾向にあるようだ。

玩具化する携帯電話:

喫茶店でアイスコーヒーを飲みながらiモードの操作をしている若い女性を見た。
こうなると電話ではなくて高価なおもちゃである。一頃はやった「たまごっち」、あるいは「ゲームボーイ」と何ら変わることはない。昨日も電車の中で着メロを鳴らして遊んでいる若い女性2人を見た。
雑誌に出されている「公共広告機構」の広告で、所かまわず携帯をもてあそぶ女性を揶揄して「四六時虫」と表現していたが、的を得ている。
これほどに携帯電話(あるいはPHS)が玩具のように扱われている国は日本しかない。
確かに最近は国際的に走り回るビジネスマンが携帯電話を持っていることはもはや珍しくない。しかし、2年前にパリへ行った時もそうだったし、最近も数回韓国へ行ったが、あらゆる場所で携帯電話で遊んでいる姿というのはついぞお目にかからなかった。
端的に言うと日本での現象は「幼い」ということである。幼児がおもちゃを手にして母親と手をつないで歩いている姿と変わりはない。国際的レベルで見るとそうみなされる。但し、なぜこうなったかという原因についてはもう少し分析が必要だろう。

お客様は神様:

先日こんな話を聞いた。
ある音楽教室で、生徒の親から「生徒はあくまで先生の弟子であって、『お客様』じゃないのね」との発言があったらしい。一体どこからこんな発想が出てくるのだろうか。総てにおいて「金を貰う者は金を出す者の言うことを聞かねばならない」と言いたいようだが、正当な契約関係をこれほど歪曲化する論法はないだろう。
世界的には「買い手と売り手は対等平等」が常識的な線である。もちろん交渉の中の一戦術として売り手の弱みをうまく利用することもあるが、日本のように最初から「売り手にとって買い手はお客様で、無理難題でも言うことを聞かねばならない」というようなスタンスで付き合うことはない。逆に軽蔑され、アラブ商人あたりからは「尻の毛までむしられる」目に会う。
私の見解では、このような日本の「お客様は神様」的発想の根元に、古い上下身分関係が今も強く残っている事実を見る。韓国では親戚関係の影響が結構あるようだ。
日本国内ではこのような上下関係のもたらす弊害が、親企業と下請企業の取引において強く出る。そうでなくても大企業と中小企業では資金力の違いから最初から勝負がついている(日本だけではないが)。そういうところへ上下関係が露骨に持ち込まれるから、「大企業の横暴」が生まれるのである。
こうしたことを防ぐために、通称「下請法」というものが存在する。例えば親企業の営業が「お客様は神様」に負けて、ある機械を安値受注をしたとする。次に親企業はそのリスクを「今回は客から金が取れなかったから、特別に値引きしてくれ」として、そのまま下請け企業へ玉突きさせ、部品などを安値で発注したとする。こうしたやり方は「下請企業の責に帰すべき理由がないのに、下請代金の額を減ずること」に当たるとして、法律で禁止されている(「下請代金支払遅延等防止法第4条第1項に関する運用基準」による)。

労組の役員は会社が決める:

日本の労働組合の中でも主に大企業の労組、それも会社べったりの「御用組合」と呼ばれるところでは世界でもまれに見る不思議な慣行がある。それは役員の選出方法である。
一応選挙はあるのだが、立候補者を会社と相談したり、甚だしいのは会社が直接本人を説得することもある。場合によっては自主的に立候補しようとする人を妨害することもある。本来なら組合としての自殺行為なのだが、こうして育った労組役員にはその自覚すらない人もいる。私が目撃したのはさる組合の上部団体が出している機関紙に出ていた下部組合役員の投稿記事で、役員人選はインフォーマル組織(会社が作った社員の「自主的」組織のこと)が中心となって会社との調整をしながら選ぶもの、ということを当然の前提とした文章であった。
このような「御用組合」はもともと、戦後の労働運動の中で会社側がインフォーマル組織を作って、それまでの会社に対決する組合をひっくり返したというものがほとんどである。労働運動のありかたやイデオロギー的問題はさておき、「労働組合」と称するならば最低でも会社から一定の距離を置くのが当たり前だろう。さもないともし会社が無理難題を出してきた時のチェック機能が働かなくなる。
欧米の組合から見ると、日本のような「御用組合」が組合の名前で存在している事は論外である。それは単に会社に対して物分かりがいいという面だけでなく、会社が役員を選ぶというような独立性を失っていることも含まれている。だから日本の組合代表が向こうへ行くと、「人の足を引っ張るな」とねっちり嫌味を言われて帰ってくるということも起こるわけである。
このような「御用組合」には一つの特徴がある。それは組合が組合員の言い分を聞くどころか、事によっては会社の労働部顔負けのことを言うことである。いちばんひどい話は、組合に批判的な言動をする人達に暴力を加え、骨折させた例である。
8時間労働を定めたILO1号条約を批准してないという法的問題もさることながら、日本の労働組合の実態にも問題が多い。

生きて虜囚の辱を受けず:

「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という言葉をご存知だろうか。
1941(昭和16)年、陸軍大臣東条英機の名で出された将兵のための道徳書、「戦陣訓」の中の一節で、戦前の日本軍の「玉砕」や、沖縄戦での民間人に自決を強制するための精神的支柱となったものである。
当然の事ながら、現代ではこんな非人道的なものは否定されている。
この「捕虜になるな」という命令は、その裏返しとして日本軍が捕らえた捕虜に対する過酷な扱いとなった。1929(昭和4)年7月、捕虜の人道的待遇を細部にわたって定めた「俘虜の待遇に関するジュネーブ条約」に調印した日本政府に対して軍部が反対、批准ができなくなった。それ以降、兵隊に自決を強要する異様さと、大量の死者を出すような捕虜の扱いは、国際的な批判を浴びながら敗戦まで続いた。
実は戦前でも軍部の台頭が激しくなかった頃は、1899(明治32)年の「ハーグ陸戦規則」などの国際条約が守られた。例えば日露戦争の日本海海戦に従軍して捕虜となったロシア人ノウィコフ・プリボイは著書「ツシマ」の中で捕虜の扱いが丁寧であった事を描いている。それが第二次大戦では、映画「戦場に架ける橋」などに見られるような残酷な扱いに変貌したのである。
戦後は1949年のジュネーブ捕虜条約が結ばれ、多くの国が採択しているが、湾岸戦争におけるイラクの「人間の盾」のように100%完璧ではない。翻って日本国内での動きを見ると、日本を「神の国」と呼んでみたり「教育勅語」を是とすべしというような意見が少数ながらある。それは「天皇のためなら命を捨てよ」という思想が完全に払拭されていないことを物語っている。
また、従軍慰安婦問題を含む戦後補償問題がいまなお残っている事は、国際社会の中での日本に対する評価が決して甘いものではない事を示しているものといえよう。
「ハラキリ」を美学とする考え方は、国際的には通用しない。

休日の会議!?:

世の中にはとんでもないことを思い付く人がいる。
社内での話だが、アジアの某国へ出張するのにわざと土日を選んで打ち合わせに出かけるのである。それもどうしても日程の都合がつかなくてそうなったというのならまだしも、さも当然のごとく立て続けに数回やったというから開いた口が塞がらない。
相手は我慢してくれたようだが、「日本人は非常識」との印象を強く持ったに違いない。貴重な休日を自分勝手な尺度で計る無神経さには呆れる。「節度を考えろ」と言っておいたが、どうやら馬耳東風のようである。
実際上、休日の会議で物事を決めようとしても効率は良くないと私は考える。合意したとしても双方の実務者の裏付けを取れないし、休み明けになってからそれが実現不可能ということが解ったら振り出しに戻るからである。
そして何よりも、相手の貴重な休日を潰すというエゴイズムは日本人の面汚しであると断言したい。
それと社内にはもう一人困った御仁がいる。この人物は些細な事でも休日に部下を電話で呼び出すという悪い癖がある。最初は何事かと思って出て行く社員もいたが、度重なるうちに嫌がられるようになり、今は奥さんに居留守を使うように頼んでいる人もいるとの話を聞いた。
ちなみにさる外国人に休日の電話での呼び出しの是非を聞いたら、「人身事故ならともかく、社長といえどもそんな権利はない」と一刀両断であった。

新聞の宅配:

新聞を一軒づつ宅配するというサービスは日本独特のものである。欧米では個人が毎朝町角のキオスクなどで買っていく。それと日本では全国紙が100万を超えるような部数を発行しているが、欧米では地方紙中心で、ドイツの"Die Welt"のような全国紙でも数十万部でしかない。恐らく宅配のシステムによって巨大な全国紙に発展したのではないかと思うのだが、間違いであれば指摘いただきたい。
宅配による副産物として、古紙の回収率が世界一であることが知られている。もっとも最近は古紙の値崩れで廃品回収が来なくなってしまった。欧米では道路にある屑篭が読み捨てられた新聞で詰まっている。
この宅配システム、問題がないわけではない。マスコミが流す情報が読者にとって受け身にならざるを得ないからである。自ら買いに行くとなると、自分の好みをしっかり決めないといけないし、根本的には「読まない」という選択肢もあるからである。そこに「良い記事を書こう」という競争力が働くか働かないかの差が出る。
日本では記事の好みというよりも、いかに景品やサービスが多いか(公取がいくら警告しても根絶しない)が選択の基準になっている。中にはそれがために意図的に購読紙をころころ変える人もいる。
うちのヨメハンは3面記事とテレビ欄だけ。私もざっと全面に目を通すだけで深くは読んでいないので、あまり大きな事は言えないのだが(笑)

「大人」は20歳から?:

最近少年犯罪の増加から18歳以上を大人の範疇に含めようとする動きがある。私個人としては18歳以上とすることに異存はない。
しかし、犯罪について大人の扱いをするなら、その他の権利・義務一切も含めるべきだろう。そうでないと片手落ちである。ちなみに選挙権について世界の実態を調べると、政府統計で146カ国が18歳以上、22カ国が日本のように19歳またはそれを超える、となっている。こういう点でも日本は世界的にマイナーである。
20歳とした根拠ははっきりしないが、昔は14、5歳ともなれば一人前(労働力としてだが)の扱いをしたし、武家社会では「元服」の儀式を行っていた。勿論絶対的な基準が存在するわけではないが、現在の教育・社会規範から見て18歳というのは妥当だろう。
付け加えておくなら、プロ野球のドラフトで高卒者は逆指名を認めていないのはおかしい。若者を馬鹿にしている。

富山の薬売り:

「富山の薬売り」といっても、若い人はあまりご存知ないだろう。要するに家庭常備薬の一式が入った薬箱を各家庭に置いておき、販売員が定期的に訪問して使った分の料金徴収と薬の補充をしていくというシステムである。
私の小さい頃は家でも利用していた。現在でも若干の利用があるらしく、TVコマーシャルもやっている。
この日本固有のシステムは考えてみれば合理的な側面もある。常備薬の補充を考えなくていいし、薬局へ買いに行く手間も省ける。ただ、このシステムは日本人のような薬好きが背景にないと成り立たないだろう。欧米のように薬を多用しないところでは需要の絶対量が少なすぎて採算が合わないのだ。

宗教について:

良く言われることであるが、日本人の宗教に対する希薄さというのは確かに独特のものがある。だが、私は単純な「宗教必要論」は有害であると思っている。ここでは宗教を思想とか文花の面でなく、単純な日常性という側面から見てみたいと思う。
冠婚葬祭はもとより、彼岸の墓参りからクリスマスに至るまで、世界の宗教行事が入り乱れるというのは非常に珍しい。私はこの現象をイベントを大切にするという一種の風習であると見なしたい。これはキリスト教あるいは同じルーツを持つイスラム教と比較するとよくわかる。彼らは日常生活の中に宗教的行事を織り込んでいる。すなわち毎日曜日(イスラムでは金曜日が安息日として定められている国もある)に教会に行くとか、一日に5回メッカへ向かって祈りを捧げるとかふんだんに宗教的教義を植え付けられるのである。
こういう環境で育った人間は自然に「神の存在」を受け入れる。大人になってから神の存在を否定されても、小さい頃から経験してきたものを全面否定するのは困難だし、無理に捨て去らなくても生活は成り立つ。
これに対して日本ではこのような日常性はない。せいぜい朝に神棚あるいは仏壇に簡単易手を合わせる、あるいは季節の変わり目とか冠婚葬祭などのスポット的行事が組み込まれているだけである。詳しい歴史の知識がないので何とも言えないが、戦前のあの教育勅語と奉安殿に囲まれ、がんじがらめにされた一時期と比べると、その違いが理解してもらえると思う。
さてこのような違いが何故生じたか、この面での知識がまったくない私には謎のままである。

パチンコ:

ゲームセンターというのはどこの国に行ってもあるものだが、パチンコ、それも専門の店があるというのは日本独特である。それにしても諸外国ではやらないのは何故だろう?
私自身も学生の頃にパチンコ屋へ良く通ったが、電動式になってからは面白くなくなってやめた。要するに確率変動などギャンブル性が次第に高くなっていって、腕試しができなくなったためである。
その昔、電動式になる前の話だが、あるベルギー人が興味半分でパチンコ屋へ行った。でも「退屈で面白くない」という。よく聞いてみると玉を1個づつアウト穴に入るまで目で追っていたらしい。連続して玉を打ったらいいのにと言うと、「そんなせっかちなことはいやだ」ということだった。どうやらパチンコは日本人の国民性を現しているようなのだが、具体的に何がどうなのか私には解らない。

クラブ活動より受験勉強:

私が若い頃にはこのような風潮はなかったように思うが、今や中学や高校の大半で3年生はクラブ活動を制限される。こんなに受験勉強を優先させるというのは、同じく受験競争が激しくなっている隣の韓国でもやらない。
特にスポーツについては、成長期にある子供達の発達を阻害するだけで、「百害あって一利なし」の典型だろう。日本のスポーツが不振なのはこの制限が遠因になっているという説を唱える人もいる。
学歴社会や受験戦争の根本的解決が必要なことは言うまでもないが、クラブ活動の制限はやろうと思えばいつでも廃止できる。子供の成長を真に願うなら、こんな馬鹿げたことは即刻やめるべし。世界の笑い者になっている。

2つの周波数:

電気の供給で一つの国の中に2種類の周波数が存在するのは、私が調べた限りサウジアラビアと日本だけである。その他の国では50Hzまたは60Hzに統一されている。
欧州系の50Hzとアメリカ系の60Hzが同時進行で世界中に広まったためだが、サウジは西海岸と東海岸が砂漠で隔てられているのでやむを得ないとしても、日本の場合は国としての基準も方針もなく無秩序に発電所が作られたため、明治時代に輸入された機器の製造元に依存するかたちで東西真っ二つに別れることになったのである。
電圧についても日本は世界的にマイナーな区別をしていて、低圧については440/220/110(60Hz系)となっているが、世界の主流は380/220V(50Hz)あるいは415/240V(60Hz)である。電圧の比が日本の1:2に対して1:1.732(3の平方根)となっているのは同じ電源から2種類の電圧を取るのが簡単なためである。その詳細は電気の専門的知識が必要なのでここでは省く。
それにしても日本では規格の統一という点でいつも世界に遅れを取る傾向にある。要するに他国の出方を見てから動くのでそうなるのだが、そこは外交も同じである。

ストは「不可抗力」か:

国際取引の仕事をやっていると、契約書作りに苦労する。何しろ文化とか習慣の違いがストレートに出るため、食い違いの調整と妥協点をさぐるための話し合いを根気良くやらねばならない。意見が対立してしまって、たった一行のことに数時間費やすこともある。
さて、食い違いでいつも揉めるのが2ヵ所ある。一つはいわゆる「PL法」に関する部分で、こちら側の標準契約書のタイトルが一般的な「Product Liability(製造物責任)」ではなく「Indemnification(賠償)」と随分刺激的な表現の上に賠償額が「青天井」となっているために、「それはひどすぎる」と相手が常にクレームする。大抵「補償額は保険が効く範囲内を限度とする」ことで落ち着くのだが。
もう一つは、これが最大の難関なのだが、「ストライキ」を不可抗力と認めるかどうかである。通常、クーデターなどの政変とか天災を不可抗力と定義して、納期が遅れることを許容するのだが、ストについてこちら側は不可抗力の範囲としていない。他社のケースを知らないので何とも言えないのだが、日本国内ではまず不可抗力としているところはないだろう。
勿論国内法としてストを違法としている国はほとんどない。ただ国際的には不可抗力とするかどうかを決定する法とか規制はないので、相手国での事情がそのまま反映されて主張される。そうなると「ストは労働者の権利としてやむなし」とする欧米系企業の考え方と、「スト迷惑論」が根強い日本企業の考え方が全面的に衝突する。
現実的にはストを不可抗力とする、あるいはゼネストは不可抗力とするが一企業だけの場合にのみ除外するとかいうところで合意していることが多い。

抗菌グッズ:

食品とか医薬品関係を除いて、「抗菌」を売り物にした商品が宣伝・販売されているというのはたぶん他国には例がないだろう。そもそも抗菌を一般の商品に強調しなければならい理由とはなんだろうか。
最近青臭い体臭を漂わせた若者がいなくなった。清潔でオシャレな若者というのは別に悪いことではない。しかし「他人の使った文房具は汚い」とか「他人が使ったトイレは汚い」ということを極端に感じるというのは、これはメーカーの誇大宣伝ということもあるが、買う側にも勘違いがあるように思う。
事実に即して言えば、無菌室でもない限り大気中の菌をゼロには絶対にできない。食品衛生法でも菌の数の上限は規定してあるがゼロとはしていない、というかできないのである。それともう一つの問題は菌に対する体の抵抗力を弱くしていいのかということである。そう言えばどこの自治体だったか、公園の砂場を抗菌処理するという例もあった。犬や猫の糞に含まれる菌をなくそうとのこと。
別にぶどう球菌とかO−157の食中毒が増えていいということではない。手洗いだけでも相当菌が減らせるものを、敢えて誇張して宣伝したり、必要以上に気にするようなものではないということが言いたかっただけである。抗菌グッズは過剰消費、資源の無駄遣いに近い商品ではないだろうか。
それと、一つ付け加えておきたいのは、以前日記にも書いたが、多くの他人が使って一番汚染されているのは貨幣(紙幣を含む)だということである。貨幣は多くの他人から他人へ渡ってこそ意味があるもの、それのみが使命なのであるから、抗菌を好む人には最大の敵であるべきものである。しかし、誰もこのことは口にしないというか気付いていないようである。だから抗菌グッズは物事のある一面を不当に誇張した観念を商品として体現したもの、とでも言うべきなのだろう。それがなぜ日本だけの現象として起こるのか・・・私には謎である。

為替・株式市場の報道:

80年代後半、すなわちバブルの始まりくらいからだろうか、はっきりしないが、TVのニュース番組に必ず外為と株式の相場を入れるようになった。現在のように連日連夜定期的にやるのは日本だけである。アメリカなどにある専門番組は別にして、一般のニュース番組でやることはまず有り得ない。
相場の情報というのは本当に多数の国民にとって天気予報並みの重要性があるのだろうか?素朴な疑問である。海外に在留する邦人がある時新聞のコラムに書いていたが、日本へ帰国してこの相場ニュースをテレビを見た時に「日本人はすべて金の亡者になったのか」と感じたという。
私自身は国際貿易に関わっているので為替相場は仕事の必需品である。しかし、ネットで24時間、15分おきに為替レートを表示するサイトを見ているのでTVで流れなくても不便はない。日常生活では海外旅行の時とかガソリン代の値動き以外はほとんど何の役にも立たない情報である。株式については、乱高下した時ならいざ知らず、私には全く興味はない。
相場の即時性がTV報道の中で本当に必要なのか、再検討してみてはどうだろうか。

詰襟とセーラー服:

ご存知の方も多いと思うが、いずれも軍服がそのルーツである。このように軍隊を基本とした制服がまかり通る国はまずない。特に欧米では制服を定めている学校そのものが少数派、ましてや軍隊式のものは皆無に等しい。わずかにセーラー服が存在するようだが、歓迎されてはいないようだ。
軍隊がルーツというとランドセルもそうだ。歩兵が背負う背嚢を模して大正天皇が通学に使ったのが始まりとされている。それから、今は一般化している(私も好きだが)肉じゃがという料理も軍隊で栄養のある料理として考案されたらしい。もっと言うと、日本のオフィスの大部屋方式も軍隊スタイルである。小部屋に一人または数人の男子社員と一人の秘書というのが欧米の伝統的スタイルである。
最近はブレザーの制服が増えた。いい傾向である。制服の是非は脇において、日本を訪問する外国人がいい評価を下さないものの一つとして、詰襟とセーラー服はもう卒業してもいいだろう。

生理休暇:

男である私には生理の時の痛みというか苦しみはわからないのだが、女性の中には動けないほどひどい痛みを伴う人がいるらしい。また、ひどいのになると生理時に万引きをするケースもあると聞いた。
それはさておき、生理休暇は日本にしかない制度である。女性保護という観点からはどこの国にあっても不思議ではない。しかし、それほど痛みがない人も大勢いることから、世界的にも制度要求が少なかったのだろう。逆に言うと、日本では我慢できないほど女性がひどい扱いを受けていたという証拠になる。それもそのはず、この制度は戦時中に始まった。当時は軍需工場などで女性が男性並の長時間かつ過酷な肉体労働をさせられたので、生理時に倒れる人が多かったのだろう。それで政府が「生理の時は休んでよろしい」ということにしたようで、決して苦しみに耐えかねた女性達の声が届いたというわけではないのである。
現代での必要性はどうなのか、少数とは言え病的な症状を示す人もいるだろうから単純に廃止してよいものかどうか議論があると思うが、女性の意見は如何?

手形と現金:

日本国内で企業間での支払手段といえば、圧倒的に手形、それも買い手が売り手に対して一定の期日後に現金を支払うという約束手形が多い。
しかし、このような手形が主流になっている国は日本以外まずない。大半は検収後1ヶ月後くらいの現金払いである。なぜこのようなことになったのか。私見だが、日本では手形が一種の支払いを意図的に遅らせる手段として使われているのではないかと思う。実際、手形は最低でも120日、長いものは180日というものもある。かなり前になるが、大企業から下請け企業に渡る手形が次第に長くなり、問題になった。それで中小企業に対する保護の観点から、手形は極端に長いものを出してはいけないという法律ができた。そして実際の運用として120日を超える手形を下請けに渡すことを禁止したのである。
そもそも何故中小企業に不利になるかというと、中小企業は大企業に比べて資金力が弱い、すなわち手持ちの現金が少ないが故に、仕入先や給与の支払いに使うための現金が不足しやすい。従って手持ちの手形を銀行に持ち込んで現金化せざるを得ない。その時、当然ながら銀行は手形が現金化できるまでの期間に対しての金利と手数料を要求する(「割引」と言う)ので、中小企業側には手形の額面よりも少ない現金を受け取るわけである。当然期間の長い手形になるほど目減りは大きい。
最近この手形の膨大な発行量を減らそうという観点から「期日指定払い」を採用する大企業が増えてきた。つまり手形を発行する替わりに手形の決済期日と同じ日に現金を支払うというものである。但し、これは手形発行の手数料を減らすのが目的で、支払遅延の手段という性格は変わっていない。中小企業の場合は逆に割引がきかなくなるので期日指定払いは適用しないことになっている。
中小企業法の改正で、今年の3月から大企業から見た下請け企業の資本金を1億円から3億円に引き上げたが、この手形乱発問題という根本に検討を加えようという動きはまだない。
なお、国際取引の場合は「信用状」(Letter of Credit:略称L/C)と呼ばれる手形とは全く異なる方法が良く使われるが、説明が長くなるので割愛する。