悪餓鬼日記帖:なにぃ、文句あっか!

01.10


2001.10.31:

一昨日の「コーポレート・エディション」によるパンク事件、実はエンジンとデータの両方のファイルの更新があったためにものすごいダウンロード量になったのが原因とわかった。それにしても人騒がせな話である。
先月末からくすぶっていたイギリスの会社の不安説、親会社の経営難がついに表面化し、ヨーロッパのニュースに出るほどの話題になってしまった。そしてロシアの会社がテコ入れすることになり、借金の返済も繰り延べ(専門的にはReschedulingと言う)するという。しかし社長を始めとする経営陣は退陣、子会社の売却、再編が行なわれそうである。そうなるとこれまた成績の芳しくないイギリスの子会社は売却の対象になる可能性が出てきた。
結局そのあおりで私も再度のイギリス行きになりそうである。それももはや「ついで」の仕事をこなしながら動きを待つのではなく、まさに契約の中途解約手続きをせねばならない事態が現実のものになりそうなのである。
ここしばらくは参謀本部並みに情報に神経を尖らせる日々が続きそうだ。月末処理が済んでも気が休まりそうにない。

2001.10.29:

久しぶりに会社に顔を出したら、NIMDA問題は解決しているどころか1ヶ月以上経っても落ち着いていないことを知った。
まずネットにまったくつなげない状況は変わらず、逆にウィルス対策を強化しようとしたことが裏目に出ている感がある。すなわちひとつにはIEをやめてNNをインストールし、かつネットにアクセスできる端末を制限しようとしていることである。しかしこれをやると現在業務ソフトでIEを使っているものはどうするのか、共存するのはいいが、必ずどこかで矛盾が生じるだろう。
もうひとつは防護対策の強化策として、ウィルスソフトの「ウィルスバスター」で自動的にデータ更新を行なう「コーポレート・エディション」を入れる指示が出たのだが、今朝のようにデータ更新された直後の朝はサーバーにアクセスと自動ダウンロードが集中し、ただでさえケチっている容量の小さなLAN回線がパンク状態に陥ることである。
今朝は本当にひどかった。とにかく出張中に溜まった社外・社内からのメールを読もうとしてもことごとくタイムアウトで取り込みが出来ない現象が午前中ずっと続いた。これでは仕事にならない。おまけに出張旅費の精算をやるにもことごとくエラーになってしまう。私はもう完全に頭にきている。海外の情報を取ろうにもネットは繋げない、メールは読めない、これでは仕事をするなと言っているのと同じことである。

2001.10.28:

金曜日くらいから痛み出した奥歯、今日はついに我慢し切れなくなって日曜も開業している近所の歯医者に駆け込んだ。とにかく口に冷水を含むと激痛が走り、帰りの機内でも軽いけれどちくちくする痛みがあり、鎮痛剤で誤魔化していたものである。
数ヶ月前に「バリッ」という音とともに欠けた歯がどうやら虫食いになってついに神経が剥き出しになったもので、麻酔をかけて神経を抜き、その後に充填材を入れてとにかくは急場をしのいだ。これから順次欠けた部分をキャッピングするという。
意外とあの歯医者のグラインダーが発するキーキーいう音を極端に嫌うことはないのだが、何故歯医者通いは短時間のくせに足しげく通わないといけないのだろうといつも思う。

2001.10.27:

どこまで続くイギリス日記・17
やっと帰国してPCがイカれた以降の日記を更新することができた。やはり日本に帰るとホッとする。海外へ行ったことのある人ならわかるだろうが、色んな情報を耳にするときの緊張を強いられない、つまり例えおしゃべりであっても言葉が自然に受け入れることが出来るということがいかに重要か、身に染みて判るのである。海外だと常にある緊張感がほぐれると今度は一気に疲れが出る。
というわけで、今日はここまでにしとうござります。・・・ん?何か昔の大河ドラマのせりふだったような・・・(笑)

2001.10.25:

どこまで続くイギリス日記・16
さて、イギリス滞在も今日で最後となった。最後の追い込みで一連の仕事が終わったのは午後6時。2時半に最後の会社へ電話して「昨日も言ったように4時にこっちへ来てくれ」と言ったら、「え?無理だと言ったはずなのに・・・」と困惑の声。「しかし明日朝に帰国するので時間がない。今夜はいつまでも待ってやる」と食い下がったら、「では6時なら」ということで待っていたら本当に6時きっかりに来てくれた。何と200キロを2時間弱で飛ばしてきたのである。さすがに頭が下がった。
ところで今日のTVのヘッドラインのひとつはWindows XPの発売である。いつの間にかそんな時期に来てしまったのかという感じだった。そう言えば週末でヨーロッパの夏時間も終わる。

2001.10.24:

どこまで続くイギリス日記・15
最初に書いたとおり、毎日通っているのはある小さな設計事務所なのであるが、具体的に言うとここで書いた図面に基づいた品物を作ってもらっている色々なメーカーと連日打合せをしているのである。
この事務所で働いている人たちの車は種々雑多国際色豊かで、ローバーが1〜2台いる他は米・仏・独・伊・日などである。中でも変り種は73年製フォード・コルチナとベンツの2人乗り小型車である。フォードはもうエンジンがプスプス音を立てているがそれでも手入れがいいので黄緑に塗られた車体は綺麗に見える。イギリスでは比較的車体が健全で、これに対してフランスでは10年以上もこき使っていると思われるような、片方のドアはなくなってビニールを張ったぼろぼろのシトロエンが平然とパリ市内を走る。こういうところは国民性の違いが如実に表われるということか。
と、ここまで書いていたら、横浜マリノスの選手がイギリスのポーツマスへ移籍したというニュースが飛び込んできた。イギリスのサッカー界も国際色豊かになって次第にイギリス人が駆逐されていくのだろうか(笑)

2001.10.23:

どこまで続くイギリス日記・14
イギリスの電話番号と郵便番号について書く。
市外局番は非常にシンプルで、ロンドンは02、それ以外は01XXXとなる。ただXXXについては地域に関係なく大都市なら2桁、それ以外の地方は3桁で、大都市と周辺地域との関係がまったくないので見当がつきにくいのが難点である。
それから携帯は07、フリーダイヤルやプロバイダのアクセスポイントは08で始まる。
郵便番号は結構複雑で、最初のアルファベット1文字または2文字が地域の略号をを表し大都市とか州の名前と関連するので判りやすい。但しロンドンだけは区を表していて東西南北に対応したEWSNが最初に来る。
アルファベットの後は1桁の数字で、これはブロックを示す。
さらに次には1桁の数字+2桁のアルファベットがあり、これは街区に対応している。従って"W2 3EL"といえばロンドンの西2区Craven Terraceを表すことになる。
何故電話番号とか郵便番号の話を書くかというと、相手先がどこにあるか、もし出かけなければならない時にどこの空港・駅に行けばいいかを知るための手掛りとして使うためである。他の国でもそうだが、このルールを知っていると非常に便利で、出張などの参考になることが多いという私の生活の知恵から得たものである。
もちろん海外出張に縁のない人には何の役にも立たない情報であるが、国内でも似たルールがあるので何らかの参考になれば幸いである。

2001.10.22:

どこまで続くイギリス日記・13
イギリスに来て約2週間、毎日どちらかというとその日暮らしが多く、日程を決めるだけでドタバタしていることが多かったように思う。しかしいよいよゴールが近づき、帰国の日まであと少しという段階になった。
そうすると今度は逆に残りの日までやらなければいけないことを日程的に詰めるのにやきもきしてしまい、結局どちらにしてもドタバタから逃れられていない。原因は毎日打合せをする相手が変わるためであることが明白であり、1社だけとの連続作業なら日程調整で苦労することはなかったはずである。
それはともかくここ数日の大雨?も一段落したこともあって気分は少しづつ落ち着いてきつつある。
ちなみにイギリスでは(というかヨーロッパレベルで)24時間に70ミリの雨で洪水になるそうだ。日本では「1時間に」70ミリくらい降ることも珍しくないと言ったら、イギリス人は目を丸くしていた。

2001.10.21:

どこまで続くイギリス日記・12
更新が毎日できなくなって2日目、ショッピングをしていて気づいた事に触れる。
日本の新しい商店街だと圧倒的に女性用品の店が多くなる。しかしイギリスではそれほど目立たない。もちろんこちらでも女性のおしゃれ好きは言うまでもない。しかしどうやら支出する金額が違うようだ。話が脱線するが、イギリスの女性のサイズは破格である。ちょっと女性下着のコーナーを通り過ぎたが、とにかくデカい。余計なことのようだが、日本女性に向くサイズは子供用しかないように思えた。
日本にない商店では「靴下屋」というのがある。その名の通り靴下専門店である。それから「ボディーショップ」というのがあって、石鹸とか香水、化粧品を売っている。化粧品はこの他百貨店にあるだけで、日本のように薬屋が扱うことはない。
マクドナルドとかケンタッキーフライドチキンなどの店は世界中にあるから珍しくもない。しかしファーストフードの店の一角に中華料理を見つけた。米はイタリア米だが、酢豚とかエビチリソースなどがあって、酢豚を食べてみたが問題ない。「シンガポール」の名前がついていたが珍しい店もあったものだ。ちなみに中華レストランは2つの町に一軒づつあった。店内では中国の歌として「北国の春」などがかかっていた。中国でも人気のある日本の歌がそのまま中国の歌として勘違いされているようだ。

2001.10.20:

どこまで続くイギリス日記・11
えらいことになってしまった。
ホテルの部屋でモバイルPCを手からすべり落としてしまい、HDは何ともなかったもののモデム(というかCOMポート全部)がハード的に繋がらなくなった。従ってこの日記もメモとして残すものの、更新は日本へ帰国してからになる。
あ〜〜、一生の不覚だ(号泣)

2001.10.19:

どこまで続くイギリス日記・10
日本からの助っ人が到着した。早速ニューキャッスルの会社から来た連中との会議に参加してもらった。いよいよ最後の追い込みである。
私の帰りのフライトも決まったからこれからますます会議続きのハードスケジュールになる。私の持っている飛行機の切符はこれ以上の変更がきかない格安航空券だから、完全に尻に火がついたのである。
第四コーナーを回ろうとする直前の週末、どうやって過ごそうか?

2001.10.18:

どこまで続くイギリス日記・9
どうも今回はバスでの難儀に遭遇している。昨日は仕事が終わって隣町にいる仕事仲間のホテルへ行こうとしたが、30分おきに来るはずのバスが40分経っても来ない。そのうちに日はどっぷりと暮れてしまい、待ち合わせの時間に遅れそうになったのであわててホテルに戻ってタクシーを呼ぶことになってしまった。
今日は今日で事務所を早く締めるというので、一緒に仕事をしている若者と町へ出かけたが、帰りのバスが案内ではホテルの近くを通るはずが実際は住宅街をぐるぐる回った挙句に事務所の近所で終点になってしまった。
ホテルから事務所まではいつも徒歩で片道25分ある(バスは本数が少ないので歩かざるを得ない)のだが、今日は少し楽ができると思ったら大きな間違いだった。

2001.10.17:

どこまで続くイギリス日記・8
予定では今週末に帰国するつもりだったが、事情があってもう1週間滞在することにほぼ決まった。
「予定は未定」とはいえ、実際のところ1社にべったりくっついて仕事をこなすというのではなく、10社近い会社を順に呼びつけて打合せをするので時間の調整を完全に決めるというわけにもいかず、帰国の日も確定しづらい状態にあるのが正直なところである。
本来ならある会社の揉め事に関していつでもスタンバイしておけというものであったが、ついでにこなすはずの仕事の立場が逆転してその日暮らしのほうがメインになってしまった。それも明日日本から助っ人が来るので完結してこい、ということになったのでますます帰りづらくなった。
昨日あたりから天気が回復して小春日和になった。イギリスの秋は次第に深まり、枯葉が歩道に積もっている。朝は息も白くなりかけていてコート姿も目立ち始めた。町の繁華街ではクリスマスの飾り付けが開始されている。ハロウィンもまだというのに気が早い。もちろんイルミネーションが灯るのはもっと先の話だが。

2001.10.16:

どこまで続くイギリス日記・7
今イギリス議会でちょっとした揉め事が起こっている。原因は以前のイギリス日記にも書いたことがある鉄道問題、それも施設を所有するRailtrack社が実質的な倒産状態に陥っていることをどう解決するかの話である。
これも以前に書いたが、元凶は民営化で信号などのメンテ費用が後回しになり、慢性的なダイヤの乱れが今や悲惨な状態になったことにある。そしてついには資金が底をついてしまい、この先誰がその借金を負担するのかを巡って議会を巻き込んだ論争になっているのである。
今話が持ち上がっているのは、外国も含めた引き手あまたのドル箱であるドーバー海峡線だけを分離する案だが、これだと残った「ババ」を誰が引くかという話になるだけで何一つ解決しない。しかもこの「ババ」を巡って列車運行会社が引き取るだの株主が負担するだののなすりあいが始まり、ついには政府の交通政策が悪いのだから税金で負担せよ、国営に戻せなどという議論になったから当然議会にまで飛び火することになったのである。
とにかく借金はこの先1千万ポンド(約17億円)以上あるとも言われ、その解決をどうするかで百家争鳴、連日マスコミを賑わせているのである。ただ私はこのあたりのいきさつが飲み込めないでいて、あるイギリス人に解説してもらってやっと理解できた。それにしても借金の原因も詳細も明らかにせずに国鉄を民営化し、「清算事業団という形で借金を誤魔化した上にその一部をタバコの税金に転嫁してそれでもまだ解決できていないというどこかの国に比べ、官僚の意味不明の発言はあるとはいえ、少なくとも現状を明らかにしてから議論をするという情報公開の姿勢には雲泥の差があると言えるのではないか。

2001.10.15:

どこまで続くイギリス日記・6
ちょっと硬い話だが、英語に関する話題を3つ。
一つ目は街路名。どうもイギリスの通りを示す名前の中には一風変わったものがある。もちろんstreetとかavenueではない。例えばハリーポッターの育ての親であるダズリー家があるのはprivet driveである。日本語版では単に「プリベット通」となっているが、このdriveというのが通りを指すとは信じられなかった。しかし実際こちらに来てみたら確かにそういう名前が存在していたのである。
この他にcloseという名前も見た。多分行き止まりの路地を言うのだろうと思うが自信はない。いちばん奇想天外なのはthe pieces northとthe pieces southというもので、まったく意味不明であるが、こんな名前もあった。
次もハリーポッターに絡むが、「白雪姫と7人の小人」というディズニー映画の看板を見ていて気づいたことがある。実はこの「小人」を示す英語はdwarfとなっている。だが、この言葉は厳密にいうと小さな妖精を意味する。以前にも書いたが日本語にはまったく存在しない妖精という概念がないために小人と訳すほかなかったのだろうが、この小妖精を指す言葉には少なくとも3種類存在するようで、大きさの順にgnome、dwarf、elfとなっている。ハリーポッターに出てくるドビーはelfである。ただこういう違いにどんな意味があるのかは私にはさっぱりわからない。
最後は発音に関する話。例のテロ事件で現在アフガニスタンに連日空爆が行われているが、首都カブールの英語の発音は「カーブル」である。最初、TVニュースで聞いていると変な名前が出てくるので注意して聞いていたらそういうことだった。それからF1グランプリの日本での最終戦でシューマッハが優勝したようだが、これも「シューマッカ」であった。そして最後の決定版はハリーポッターの発音で、「ポッター」ではなく限りなく「ポター」だとしっかりイギリス人に訂正されてしまったのである。(苦笑)

2001.10.14:

どこまで続くイギリス日記・5
今日は霧と曇り空の中、近くの有名な大ショッピングセンターに出かけた。大きさは日本で駅前の再開発で出来るものの倍くらいだろうか。場所は町外れで、郊外型のショッピングセンターとしては大きい方だろう。それも一軒の店ではなくテナント方式である。中には有名スーパーもいくらか入っている。車中心の社会だから駐車場は店舗びるよりも広く、2階建てだ。
適当なみやげ物がないか物色していたが、子供用にちょっとしたものを買っただけだった。しかしびっくりしたのはワーナーの映画館と映画のキャラクターグッズを売る店があるのだが、まだ封切りになっていないハリーポッターのグッズが沢山売られていた。さすが人気の高さを物語っている。中でもハリーのほか、物語の登場人物の人形が何種類かあった。ハグリッドをはじめ、ふくろうのヘドウィグのぬいぐるみもあった。しかしハリーの関係とは別に、もっとびっくりしたことがある。ある小さなキオスクではポケモンカード、それも英語版が売られていたことである。英語版のアニメがあることは知っていたが、まさかカードまでイギリスの子供たちに人気があるとは想像だにしなかった。

2001.10.13:

どこまで続くイギリス日記・4
休日を利用して古都ヨークへ行って来た。生憎の曇り空で帰り道には雨もパラつく日だったが、気温は相変わらず高めで観光客も多かった。いわゆる「名所」の狭い商店街は歩行者天国で、露店も賑わっていた。
町の雰囲気はちょうどドイツのニュールンベルグと同じで旧市街は城壁に囲まれている。そこが古都の名前にふさわしいというところか。
ヨークと言えば、ご存知の人もいるかも知れないが、駅裏にある旧機関庫を改造した国立鉄道博物館に日本から寄付された0系新幹線が展示されている。世界最初のロケット号をはじめ、独特の風格がある多くの蒸気機関車に混じって新幹線があるのはちょっと変な感じがある。ここの展示は非常に雑然としていて陳列棚に札がついた展示物が雑然と並んでいて、説明も簡単に書いてあるだけ。日本のように懇切丁寧なものではない。
ヨークではこの他、城博物館、ミンスター寺院と回った。城壁もそうだが、この町は歴史と芸術を売り物にした観光都市として生きようとしているように見えた。

2001.10.12:

どこまで続くイギリス日記・3
ここ数日、イギリスに限らずヨーロッパの秋にしては暑い日が続いている。最高気温が19℃にもなり、イギリス国内でも場所によっては20℃を超えている。
ところでここ数回のイギリス出張で気づいたことがある。普通の(?)英語では相手の言ったことを聞き直す時には"I beg your pardon?"あるいは"Pardon?"と言うものだと習う。しかしこちらでは、少なくとも私が出入りしているヨークシャーでは"Sorry?"という言葉しか聞けなかった。これには意外な感じがした。というのも日本で今まで聞いたところでは"Sorry"すなわち「ごめんなさい」と言うのはよほどのこと、と教えられてきたからである。
どうやらこれはアメリカあたりで交通事故などの責任問題になった場合のことが拡大されて伝えられているような気がする。
さらにイギリスでは"apology"、すなわち謝罪の言葉を始終耳にする。列車が遅れた時は必ず"apology for dely"、「遅れて申し訳ありません」とアナウンスがある。心からそう思うかどうかは別にして、これだけ連発するとは思わなかった。
「百聞は一見にしかず」というのが実感である。

2001.10.11:

どこまで続くイギリス日記・2
昨日報告したモジュラージャックの問題、やっと新しいものに変えることで解決した。実はホテルの電話が古く、おまけにPCとの相性が悪くて手動接続しかきないので電話との並列接続ができるアダプタを探していた。前回の出張の帰りに空港で見つけて買って帰ったのだが、今回試してみたら電話は繋がってもモデムが繋がらないことがわかった。それで急遽近所のPCショップ(イギリスでも大きなチェーン店がある)で別のメーカーのものを買ってきたらうまくいった。まずはめでたしめでたしである。しかしここまで来るのに何度失敗したことか。おまけに繋がらないアダプタで6ポンド(約千円)をドブに捨てることになってしまった。
しかしこれまでの出張を通じてこんなことがわかった。ホテルによって、大別すると電話とは別にPC用USA・日本タイプのRJ11コンセントがあるもの、電話機自身にRJ11コンセントがついているもの、イギリス式コンセントしかないもの、のおおまかに3通りのものが存在するのである。
結論的に言えば、手動接続を考えると並列接続のできるアダプタを買うのが賢明だろう。

2001.10.10:

どこまで続くイギリス日記・1
準備も慌しく日本を出発し、イギリスへ無事到着したが、道中こんなことがあった。
途中アムステルダムで乗換えたが、空港内の「スシ・バー」の店員がぼやいていた。テロ事件の影響、それも先月11日以降しばらくはそれほど乗客が減らなかったが、空爆開始以降は激減したという。確かに平日というのに空港内は閑散としていた。
それからセキュリティーだが、機内に入る時搭乗券とパスポートの照合をやっていた。またイギリス入国時も目的をしつこく聞かれた。訪問先の社名まで訊ねられたが、恐らく即答できるかどうかを試していたのだろう。もっとびっくりしたのは日本からヨーロッパへ飛ぶのにシベリアのいちばん北を飛んだことである。もちろん戦場から遠く離れているに越したことはない。
マンチェスターを降りて目的地に向かう列車で若い日本人女性の一人旅と出会った。ドンカスターという田舎町でやっているドッグショーに参加するという。何でも犬のブリーダーの勉強をしているそうだが、アメリカへ行った経験があるとはいえ、この時期に女一人で出てくるとは驚いた。放浪に近い準備もろくにしていない旅らしく、「危険だからやめろとは言わないが、リスクが高いのでやはり宿の手配など事前の準備は重要。それからなるべくロンドンは避けるように」とアドバイスしておいた。

この日記、本日は更新できないままになった。何故か新しく買ったモジュラージャックのアダプタがおかしいのかまだ原因がはっきりしない。困ったもんだ。

2001.10.09:

出社したらやはり出張ということで段取りが出来ていた。
というわけで明日から今年5回目のイギリスへ。今回はやや不安が伴う。飛行機ではない。むしろロンドンのような大都市で人が沢山集まる場所の方のリスクが高いといえるだろう。幸い今回はロンドンには行かず、往復ともにマンチェスターを経由してヨークシャーの田舎に滞在する。
心配して「飛行機は大丈夫か?」と聞く人がいるが、シベリアルートはアフガニスタンとは遠く離れ、カスピ海よりもさらに北を飛ぶ。よっぽどのことがない限り、例えば英国航空に乗るような冒険をしなければまず大丈夫である。今回はKLMだ。
明日からはイギリスより日記更新をする。

2001.10.08:

誠に残念だが・・・ついにミサイルが飛んだ。
そして予想されたとおりタリバン側は「聖戦」を叫んでいる。戦いは必然的に泥沼化するだろう。
今回も思うのだが、アメリカは何故国際世論の高まり、特に国連の決議を待たないのか。どうやらそこには独りよがりの「アメリカが世界の標準、アメリカは世界の憲兵」という論理が貫かれているようだ。これは湾岸戦争やユーゴ空爆で同じことが繰り返された。
何もアメリカを非難しようということではない。不正を働く相手に対して正義漢よろしく真っ先に飛び出して同じ暴力で対抗することは、相手を逆上させることにしかならいないということである。
アメリカは過去2回の経験で何も学んでいないのだろうか。湾岸戦争ではフセイン大統領を孤立させるどころか国民をフセイン支持に駆り立てた。ユーゴでもミロシェビッチを引き摺り下ろすのが遅れた。そして今回はオマルとビン・ラディンを英雄にしかねない。
国連を軽視し、自らがソ連亡き後の大国主義を振り回すことがどういう結果を生んでいるのか直視すべきだ。国際世論は誰が間違っているかを良く知っている。

2001.10.07:

林間学校へ行っていた息子が帰ってきた。山登りとか、珍しい動植物を見て楽しかったという。行く前はあまり乗り気でなかったが、そこは子供のこと、ころっと心変わりしてケロっとしていた。
ところで週の途中で自宅に葉書を出すことになっていて確かに届いたのだが、宛名はヨメハンの名前になっていた。仕方がないと思いつつも一抹の淋しさを覚える。但し「何故私の名前にしなかったのか」と聞くような野暮な真似はしていない。

2001.10.06:

いきなり会社から電話があって「急遽イギリスへ行ってくれ」と言う。
昨日一旦は消えたはずなのに、まったくの青天の霹靂である。昨夜現地から要請があって一日も早く来てほしいということだが、準備も何もなしに言われたってどうしようもないし、切符の手配もできない。8日に出発する話すらあったが、さすがにこれは断った。早くても10日以降ということで落ち着いたが。
ちなみにこういった緊急事態に飛行機が予約できるか調べていたら意外なことがわかった。関西空港から出発する場合だが、休日の予約となるとJALかANAしか利用できないのである。何故かというと、関空で国際線の航空券の発券ができる会社はこの2社しかなく、他社の便は利用できないのである。休日に開いている大手の旅行代理店でも同じだった。成田での実状は調べていないので何とも言えないが、人命に関わるような話だとどうしているのだろう?

2001.10.05:

決算も終ってちょっと落ち着いたと思ったら、経理から訳のわからない要求が出てきた。ある支払いの申請で証拠書類を出したら、また別の書類を出せ、それも上司の判がいるという。
加えて同じような話を別の部署で聞いた。そして今までの私の経験も踏まえて今のところの経理の問題点を整理してみた。
− 突然新しい書類などを要求する。かつ一つ片付いたと思ったらまた別の問題を持ち出す。
− ルールをいきなり変更する。それも正式に「お触れ」を出すのではなく、所属長が担当者を通じて口頭でやる。
− 監査ではすべて他人に弁明させる。曰く「原因元が説明すべきだ」。
こういう異様さは他の事務所から異動してきた経理担当者も同意した。「ここはちょっと他所に比べて変わっている」と。

2001.10.04:

倒産の不安説について書いていたら、スイス航空が本当に倒産したニュースを聞き驚いている。
航空会社で記憶に新しいところといえばパンアメリカンだったと思うが(アメリカの弱小会社は始終興亡を繰り返しているとも聞く)、それ以来だろう。最近は運賃の値下げによる過当競争で航空会社の経営が楽ではないと聞いていたが、実際に倒産した事実を目の当たりにすると考え込んでしまう。潜在的には経営の失敗なのだろうが、やはりドル箱のアメリカ路線がテロ事件でだめになったのが引き金になったことは否定できない。アメリカの航空会社も同様な、というかより深刻な事態になっているだけに、この業界も先行きが明るいとは言えない。
世界同時不況の声が出始めている今日、テロの首謀者はほくそえんでいるに違いないだろうが、イスラム教に限らずそういう人間に宗教を語る資格はない。

2001.10.03:

先月末に騒ぎになったイギリスの会社の不安説で、とんでもないことを言う人が出てきた。もちろん社内ではない。
工場で製作中の品物に「これはウチの会社の所有物である」と書いたラベルを貼ったらどうかとというのである。度肝を抜く発言に唖然とした。実際に倒産して債権者の権利を守るためという言い分があるならともかく、周辺で起こった(あらぬ噂が広がるのを防ぐため、具体的なことはことは差し控える)トラブルで、その会社自身は従業員が浮き足立つこともなく毎日せっせと働いているし、材料を納入している業者もまったく問題にしていない。そんなところへのこのこ出かけていって相手の気持ちを逆撫でするような張り紙をしたら後からハンマーで殴られても不思議はないだろう。
同じ仕事をしている関係者ともども異口同音に「そんな恐ろしいことをよく思いつくもんだ」と言ったが、私もぞっとした。言っておくが日本でも不安説だけでこんな行為をすることはまずありえない。

2001.10.02:

米国テロに関して、Nikkei Business 10月1日号に「ニューヨーク総領事館、テロ事件で見せた心なき対応 − 日本人保護より大臣接待が大切」との記事を読んだ。詳細説明の要はあるまい。もし付け加えるなら日本の官僚はこういう育ち方をするということだ。

2001.10.01:

「ニムダ」ウィルスの後遺症というか今度は私がいる事務所の別の部で1台が感染していたことが判明した。
実を言うと流行した当初から感染していたのだが、先週に配布された更新データでは発見できなかった亜種で、今日、先週末にリリースされた最新データでチェックしたら感染していることが検知できたのである。早速朝から感染PCを切り離し、事務所から外へ出ているWANが切断された。回復したのは午後2時で、決算にからんだ仕事は何もできなくなってしまった。大半のデータは本社のサーバーなどにあるので、午前中は工場内LANにあるファイルサーバーへのアクセスとネットワークプリンターしか使えなかった。
そして今もネット接続は不可である。