悪餓鬼日記帖:なにぃ、文句あっか!

01.12


2001.12.31:

とうとう今年も最後になった。改めて今年を振り返る。今年の私の大きな出来事は、
 −合計5回、延べ46日のイギリス出張と、それがきっかけでハリー・ポッターにハマった
 −拙文の一部が本に載った(トップページ参照)
 −ブロードバンド時代になって価格も下がったことから、12月よりNTTのフレッツADSL(1.5M)に加入した
ことであろう。
そして・・・
あの9月11日、アムステルダム空港のCNNテレビが映し出した光景に「一体これは何なんだ?」と、阪神大震災と同様の大きなショックを感じていたことは忘れられない。今までの出来事というと、予想されたことあるいは歴史の流れの中の一断片として感じられることが圧倒的に多かった。しかしあの世界貿易センターへ飛行機が突っ込むシーンというのはいわゆる「常識」の線をはるかに越えるもの、しかも天災ではなくて狂気でないごく普通の人間が想定し得る範囲からは大きくはみだしたものだっただけに、驚愕というよりも悲しみに似たものを感じた。もちろん事実は「常識」を外れているかいないかに関係なく、それはあくまで人間が考え出したものである。オームもそうだったが、こういう狂気を生み出すような時代になってきていることを思い知らされた。
時代の流れということについて、私は人類の未来を楽観している。しかし現在の状況は、そうした流れを断ち切らないまでも大きく迂回させられ、大きな犠牲を払わねばならない事態に陥っているように感じられる。21世紀の最初の一歩を踏み出しながらその初っ端に大きな躓きの石が転がっていたのはあまりにも不幸であった。来年はでこぼこであっても、巨石が道に立ちはだかる様な事態になることを望まない。また、そういう状況を作ってはならないのである。

2001.12.30:

「お仕事」考・3:
いよいよ年末も近づいた。そこで前回中断した話の続きとまとめを書く。
「仕事は時間でするものではない」とは、簡潔に言うと事務労働での平均的処理時間でできない人間は能力が低く、またできなければサービス残業をやれという意味である。またそういう脅し文句で若者を仕事に駆り立てるのである。
しかし変な話だ。もともと若者はベテランよりも仕事が遅いし抜けもある。当たり前だ。だから管理者がいるし給料も安い。それを承知で雇っておいてこれ以上彼らに何を要求しようというのだ。
それと、そもそも労働時間とは何かということが問題になる。一応法律上の労働時間は1日8時間である。これは長い年月を経て経営側と労働側が相争いながらも一定の合意を得てきたものだ。人間らしい生活を営むためにどれだけの労働時間が必要か、それを巡って時には血みどろの戦いが必要だった。だがこのことは労働時間というものは仕事の能率とかとは直接に関係がないことを示しているのである。8時間でどれくらいの生産性があるかはその時代や生産設備を含めた能率にかかっている。とはいえそれは時代とともに生産物の限りない増大として進んできたことはご存知のとおりである。その中で個々の労働者は全体としての生産計画に沿って仕事を割り当てられ、最も効率がいいように配置され、場合によっては鞭打たれたのである。そこでは生産に必要な総労働時間はあらかじめ平均的能力によって事前に計算されている。「納期」というのはそれが基礎になって計算されているし、それがなければ成り立たない。
その場合、基本的にはそのような生産計画とか設備・人員の配置は個々の労働者ではなく、会社としての専決事項になる。人事異動とはそのためにある。もちろん効率を上げるためには色々な手段が使われてきた。近代ではQCなどの科学的手法も使われている。だがそれをサービス残業で置き換えることはできない。少なくとも法律的建前としては許していない。何故か。奴隷労働がはびこるからである。
しかし実際問題として「サービス残業」という名の奴隷労働が日本であまりにも日常化しているため、今年になって厚生労働省からの通達で出退勤の管理を厳しくするよう通達が出た。労働基準監督署にはそのためのパンフレットも置いてある。特に問題なのは労働者が出退勤時間を自己申告させるケースで、これがサービス残業の温床になっているのである。但しこの通達の問題はここではこれだけにする。
さて、労働者の平均的生産性の話の戻るが、ある仕事の平均的生産性は決まっており、それを管理するのは会社の責任だということである。個々の労働者にどう仕事を割り当てるかは会社側の判断することだ。仕事をするための道具(当然PCも含む)を会社がどれだけ与えるかについても同じことである。それをまるで請負業者に出すような形で若者に能力以上の仕事を与えることはできない。労働者は生産用具を持っていないし、第一どんな仕事を(品質)いくらで(価格)請け負うか、いつまでに仕上げるか(納期)を交渉する権利はない。彼には、裸一貫で雇い主なら誰にでも、自分の人生の一部を時間決めで売る自由が存在するだけである。
しかし現代の日本では現実の雇用関係や法律を無視した、まるでひとりひとりのサラリーマンがまるですべて個人商店にならなければいけないような宣伝がばらまかれている。そのような環境にいる若者にとって、それを錯覚させる要素は世の中にごまんとあるのが現実である。半分は大人の責任であるが、「お仕事」という言葉にはそのような風潮が反映している。転職・アルバイト雑誌を見るがいい。あの中身は「仕事を求めてさまよう」というよりも「いつ、どこにでも自由に売ることができる自分でいることができるか」ということを若者に与えることがテーマになっているように私には見える。
「お仕事」という言葉の背景に、私は現代日本の働く環境がが色濃く写っているのではないかという想いから離れることができないでいる。

2001.12.28:

今日は仕事納め、例年は最後までドタバタさせられていたのだが、今年はまだマシだった。とにかく最終の日の3時頃にてんこ盛りの書類を持ってきて「休みの間に回答を貰ってくれ」と海外への連絡を強要(言葉は「依頼」だが)するのである。お陰でFAXを流し終えるのは5時、それからすぐに納会なので机の上をを片付ける暇なんかなかった。
もっとも「今年はマシ」と言いながら、机が2つあるので結構忙しかった。「支店」の机は90%で中断し、年越しで片付ける事にした。「本店」は何とか見栄えは良くなった。
あ〜〜〜〜しんど!

2001.12.27:

英語版ハリーポッターシリーズ4作の2回目を読み終えた。通勤の車内でずっと読み続けていたのである。
2回目となるとかなりストーリーの細かいところまでわかるようになってきた。しかし部分的にはまだまだ連続して辞書を引かないとわからないところがある。あるいは話し言葉でどういう意味なのか、文法的にも、辞書を使ってもまったくわからない部分もある。本当は和訳を読めばいいのだが、やせ我慢というか、4作目などは前3作の流れとか言葉がわからないとどうしようもないので原作にこだわっている。
ここで4作目の「さわり」だけを書いておく。以前の日記に導入部のところを書いたと思うが、ちょっとだけその先を書こう。
4作目では登場人物の今まで隠れていた人生をかなり明らかにしている。例えばハリーの同級生、ネヴィル・ロングボトムの両親の秘密が明らかになっている。それからスリゼリン組の親たちの役割、あるいはハグリッドが何故あんな巨体をしているのか、など意外な事実が次々に出てくるのである。
ちょっと話が専門的になるが、「小人」というか「妖精」というか、ドビーのような存在について、日本人にはまったく理解しがたい生物について書く。
まず彼らはその大きさによって言葉が区別されている。ドビーのような一番大きいのが"elf"、そして小さくなるにつれて名前が"dwarf"、"gnome"と変わるのである。ちなみに「白雪姫」に登場する「小人」は分類的に"dwarf"である。そもそも日本には存在しないのだし、また似たような生物もいないので、辞書を作った人は苦労したことと思う。おまけにその大きさによってまったく違う言葉が使われる理由は何か、それもまた魔法の世界に無知な私にはとんとわからずじまいである。
さて、「炎のゴブレット」ではこのドビーのような小人たちが飼主から報酬をまったく得ていない話が出てくる。それもホグワーツ校の食事は彼らが作っているのである。それに義憤を感じたハーマイオーニは「小人福祉向上協会」というバッジを作って無理矢理ハリーとロンを会員にしてしまう。ここらあたりの正義感をストレートに表に出す感覚は日本の子供たち(大人でもそうだが)とは全然違うのである。

2001.12.26:

ADSLに変えたと同時に、ISDN時代に問題になっていた電話の呼び出しに対して受話器を取ったと同時に切れる現象がなくなった。ひどい時には連続して数回起こり、なおかつテレビやPCとの関連がまったくなく、TAを変えても解消しないいわゆる「幽霊」現象だったのである。NTTにも数回来てもらったがその時だけは起こらず、一時はオシログラフを入れることも考えたくらいである。
今から考えるとISDNのバースト電圧が少し上がることに対して、電話機が敏感に反応していたのかと勝手な想像をしてみたが確たる証拠はない。訳のわからないうちに解消してしまったが、少なくともアナログでは起こらないということだけははっきりしたようだ。

2001.12.25:

円がじりじりと値を下げている。失業率をはじめ、あらゆる経済指標が下降してるから、どうあがいて屁理屈をこねても戻るような材料は見当たらない。来年度予算案が閣議で了承されてもなお反発せず、ついには対ドル130円台になってしまった。このままでは140円も行きそうな気がする。
誰かが声高に「痛みを!痛みを!」と叫ぶ度に景気は冷え込む、そういうことが続いた1年だった。
残りわずかな日々に倒産のニュースが流れないことを祈る。

2001.12.24:

ついに今年も残り1週間となった。TVも年末特番になっている。私のほうも予定の忘年会を全部終えた。
イギリスはクリスマス休暇に入っただろうから、明日からは私の仕事も日本人との年末の挨拶が主になるだろう。今年は年末に新しい仕事をどっさり持ってくる馬鹿はいないようで、久々に落ち着いて机の上の片付けに専念できそうである。

2001.12.23:

シャンソンの大御所、ジルベール・ベコーが亡くなった、享年74歳。
私にとってフランス語を知り始めた頃、パリのレコード店には彼のアルバムが沢山出ていたことを覚えている。彼のニックネームは「ムッシュー百万ボルト」、それだけにコンサートは情熱的だった。私の好きな曲は「そして今は」と「オー・ルボワール」である。
往年の名歌手が過ぎ去っていく中、彼を送る曲としてはやはり「オー・ルボワール」がふさわしいだろう。
Au revoir, au revoir
Qui sait jamais, tout peut recommencer
Au revoir, au revoir
Il faut croire en l'ete, l'ami
(さよなら、さよなら、)
(すべてがまた始まるなんて誰が知るだろう)
(さよなら、さよなら、)
(友よ、夏の日を信じろ)

2001.12.21:

どうやら事務所の情シスはNetscapeの扱いにくさに困っているようだ。というのもIEのJavaScriptで作ったアプリがうまく動かないことでクレームが多く、IEに戻したい思いがあるらしい。
ところがその一方でセキュリティー上IE5.5SP2を入れたいのだが、一斉にMSからダウンロードされるとWAN/LANがパンクする。ということでSP2をCD−ROMにしてくれないMSに対して恨み言を言いつつ、一旦サーバーにダウンロードしてそこからインストールする方法を私にテストしてくれと言ってきた。
世間でも知られているこの方法で問題なくインストールの実験は成功した。もちろん僅かながらこの方法ではうまくいかないケースがあるようだが、情シスとしてはリスクを覚悟でサーバーに落としたファイル群をCD−ROMに落として各部門に配布するという。
クリスマス前後にウィルスが世界中で多発する可能性があることを警告した文書が全社に流れているし、マスコミでも取り上げられているが、ちょっと時期的に遅すぎるような気がする。

2001.12.20:

年末も次第に残り少なくなってきた。そして私にとってはこれが重要なのだがいよいよ明日1日で欧米はクリスマス休みに入る。会社によっては年明け6日まで2週間ぶっちぎりで丸ごと休みにするところもある。従って私にとっては仕事の区切りをつけるのは明日1日といった雰囲気がある。
欧米のクリスマス休みは私には印象深い。昔ドイツにいた頃、クリスマスの直前になると小さな家族経営のホテルから「2週間休むから出て行ってくれ」と言われ、やむなく高級ホテルに一時移転した。そして24日午後から25日丸々にかけては商店どころか一切の交通機関も停止するのである。特に25日は外出しても街には人っ子一人消え失せる。その間、単身赴任かつキリスト教とは縁のない私を含めた日本人はホテルで淋しい思いをしながら食事をし、あとはベッドでぽつねんと寝るだけになるのである。
ハリーポッターがバーノン叔父から50ペンス硬貨をセロテープで貼り付けたクリスマスカードを貰うよりももっと悲惨なクリスマス、そういう目に遭った昔が思い出された。

2001.12.19:

やっとルータの問題が解決した。原因は何とケーブルの不良であった。
大抵の人がそう思うだろうが、電気屋の端くれである私にしてもケーブルの不良が原因でなぜルータを経由した時としない時でスピードが変わるのかまったく理解できないでいる。断線寸前でインピーダンスが高くなっているという解釈も可能だろうが、とにかく現象と原因がなかなか論理的に結びつかないという経験はこれまでほとんどなかった。
しかし何故原因がわかったかというと、ダメだろうという先入観を持ちつつも子供用のPCからルータ経由のアクセスを試みたらこれが高速だったのである。だが私のPCと子供のPCの違いはWinMeとWin95である。LANカードは同じ。そんな馬鹿な!という思いが先に走った。だがここで西村さんのヒント、つまり「ケーブルがおかしいことも考えられる」ということが一瞬思い出された。そこで多分駄目だろうと諦めつつもケーブルを入れ替えて試したらうまくいったわけである。
これでこの「事件」は一段落した。重大なヒントを頂いた西村さんには改めて御礼申し上げる。

2001.12.18:

昨日と今日は帰宅後もずっとルータの問題解決で悩むことになった。しかし実際のところまだ解決には至っていない。実験のため、ドイツ人が作ったRASPPPoEというフリーウェアを使ってパケット転送量をルータと同じ値にして直結したら高速になることがわかった。つまりルータ単独、あるいはPCとルータとの相性が原因になっているらしいことがわかってきた。だが・・・
これだけではまだ解決したことにはなっていなのである。英語のマニュアルと格闘したりしながら苦難の日々は続く。

2001.12.16:

他人のマシンのISDN設定が終ったのはいいが、肝心の自分のADSLの方はルータが言うことを聞いてくれない。
それでゲストブックによく登場する西村さんにリモコンで援助を受けながら解決の道を探っていたら大変なことがわかった。NTTが配布しているPPPoE接続ツールはパケット転送最適量の設定がしてあるのだが、ルータは違う数値が設定してあって、なおかつMTUという数値の変更がまったく効かないのである。
これは困った。他のメーカーにはこの数値を変更できるのに・・・と愚痴を言いつつ、そんなことがあるとはまったく知らずに安物を買った自分が恨めしく思えてくる。ナロメ〜。

2001.12.15:

忘年会の連チャンが終った。今日は親しい仲間との語らいだったので当然こちらのほうが楽しかった。
ところで今日の会場は仲間の一人の自宅マンションだったのだが、ついでに彼の新しいXPマシンのセットアップをすることになった。それまでのIBMノートPCが壊れて新しいNECのコンパクトモデルを買ったのだが、それまで使っていたターミナルアダプタがうまくつながらないとのことだった。見るとXP用のドライバがないためにTAを認識しない。そこでアナログモデムでXP用ドライバをメーカーHPからダウンロードし、マシンに放り込んで無事解決した。その間約1時間。初めてXPを触ったがまあ何とかなってホッとした。やはり動物的勘はまだ健在なようである(笑)

2001.12.13:

年末になり、そろそろ忘年会のシーズンになってきた。明日はその第1回目である。
今年は職場も含めて3、4回になりそうだ。実は今日突然の誘いがあったのだが、土曜日も含めて3連チャンになるので断った。無茶をすると血糖値に響く。おまけに来週は診察があるのでタイミングが悪すぎるのである。

2001.12.12:

ルータの設定が成功した。マニュアルを読み直し、さらに工場出荷時設定に戻してからもう一度セットアップしたら成功した。
前回うまくいかなかった原因は、設定後のリブートをしなかったこととWAN側からプロバイダへ手動で接続をしなかった(アホか>自分)ためらしい。
これで子供は喜んで接続を開始した。しかしである。2台同時に繋ぐとものすごくスピードが落ちる。ISDNよりちょっと早いくらいにしかならない。何とか我慢はできるが速度を上げる方法をこれから研究せねばなるまい。

2001.12.11:

「お仕事」考・2:
前回はタレントなどの自由業の人達が「お仕事」という言葉を使い始めたことを書いた。
この言葉を使っている若者の中で、仕事の性質の違いがあるということを強く意識している人は少ないと思う。しかし意識性があろうとなかろうと、現実の仕事のあり方そのものが「お仕事」という言葉を使う背景にあるように感じられる。つまり現在の働き方、もう少し厳密な言い方をすると雇用形態が反映しているのではないかと思うのである。
最近は派遣とかフリーターのような終身雇用を前提としないケースが増えている。企業としても自ら築いてきた終身雇用を掘り崩して来ているし、特に若者にも終身雇用で安月給に縛られることを嫌う傾向が次第に強まってきている。このことは、いつでも辞めることができる代わりに次の仕事がいつどれくらいのの報酬で得られるのかが見えにくくなるということをもたらす。そうのような不安定な雇用形態だから、それは当然自由業などと立場が似てくるのである。
私などは石油ショックの頃に就職したから終身雇用が当然の前提としてあった。それだけに今のような不安定雇用に対してはどうしても不安感が強く感じられる。また、仕事に向かうスタンスも、今の仕事を一生続けるにはどういう姿勢で臨むべきかという点が中心になり、仕事と報酬をその時々に応じて他人からありがたく与えられるというような発想ははじめからないし、違和感を感じてしまうのである。
だが、最近の財界あたりからの雇用に対する方針は次第に変わりつつある。それは終身雇用を廃止する方向というだけでなく、安定した正社員という人達に対しても、あたかも個人に与えられる仕事が一種の請負の形をとっているように思わせようという教育をしてきている。曰く、「仕事は時間でするものではない」と。
このことの詳細はまた次に。

2001.12.10:

予定通り今日からADSL接続になった。そして心配していた速度の方も、あるスピード測定サイトを使ってみたら実効580Kが出ていた。まずまずのところである。
ここでADSLモデムとブロードバンドルータの写真を公開する。
左がレンタルのSB型モデム、右がcoregaのルータ。写真の左手には宅内引き込みのモジュラージャックと電話機、そしてスプリッタがある。ルータからは2台の各PCへLANケーブルを引いた。
配線・接続設定の途中でちょっとした冷や汗をかいた。会社から貰ってきたLANケーブルの1本がどこかで切れていたらしく、接続ができなかったのである。結構古いものだったのでひょっとしてと思い別のケーブルに変えたらうまくいった。
しかしとにかく快適である。4〜5MBくらいのフリーソフトのダウンロードを試してみたら何と1分くらいで終了する。会社のLAN/WANよりもずっと早いのである。これほどとは思わなかった。
ルータの方は私の設定の仕方が悪いようで、まだ接続がうまくいっていない。従って今はモデムから直接私のPCだけにしかつながっていない。
ADSLになったことで、ISDN時代ずっと未解決だった電話の呼び出し音で受話器を取るとしばしば切断される現象がなくなりそうなことである。ずっとヨメハンからクレームがついていたから気になっていた。NTTにも何度か調べてもらったが、再現性に乏しいのでずっと頭痛の種になっていたものである。しばらく様子を見ないとわからないが、アナログに戻ったから期待しているのである。

2001.12.08:

子供はよくプレステで遊んでいるのだが、今日ふと見ると懐かしいゲームをやっていた。「桃太郎電鉄・7」である。ファミコン時代、私もよく遊んだ。私は結構ああいうボードゲームが好きで、ひところよくハマった。特に閻魔大王との99年対決は何回かやって、ヨメハンに呆れられた思い出がある。
そのことを子供も覚えていて「一緒にやろう」と言い出した。ほんの数時間プレイしただけだが、昔のルールからはあまり変えておらず、楽しむことが出来た。

2001.12.07:

昨日青木建設などの倒産と「小泉不況」について書いたが、今日は何と首相が青木建設の倒産に対して「構造改革が進んでいる表れ」と発言した。どういうつもりなのか、どういう神経をしているのか、彼は国民が不況で苦しんでいるのを喜びにしているとしか考えられない。
彼の勇ましい言葉の影には、事実を正しく認識しないでひたすら「自分がこう思うからそうなのだ」という独善的態度が見え隠れしていたのだが、ついに言ってはならない限界を超えたようだ。明らかに彼は「潰れるところが潰れたらあとは勝手に景気が回復する」との単純な図式を描いているとしか思えない。選挙前、ある英字紙が「痛み、痛み、とサディスティックに叫ぶ演説」と評したが、彼にとっては倒産と失業の痛みでどれだけ泣く人が出るのかということは全く眼中にないようだ。
しかし彼が意識していようといまいと、「構造改革が進んでいる表れ」と発言することそのものが、今はまさに「小泉不況」であることの事実を証明しているのである。

2001.12.06:

今年をちょっと振り返ってみたら大型倒産が多いことにふと気付いた。
それは何も私個人が経験したというだけではない。現実に世界的に有名な会社も含めての倒産が相次いでいる。「ポラロイド」、「スイス航空」、そして「エンロン」。日本では「マイカル」を始め、「フットワーク」、「新潟鉄工」、そして今日は「青木建設」である。
銀行の今年度の決算はほとんど赤字ということで融資先が絞られ、それに伴ってこの年末までに倒産がさらに増えるとの予測もある。そしてその原因は不祥事とか乱脈経営などではなく、純粋に不況で資金繰りに行き詰まったケースが目立つ。
そしてここまで不況が深刻になってきたのは小泉首相になってからで、「小泉不況」と名づけてもいいくらいの状態である。実際失業率も彼が首相の座に就くまでぎりぎり4.9%あたりで止まっていたのが、一気に5%を超えたのは紛れもない事実である。

2001.12.05:

ADSLモデムとスプリッタがNTTから届いた。これで来週月曜から快適ネット生活!・・・・にしたいが、一抹の不安は拭えない。
それよりも今日会社で驚く話を聞いた。事務所から本社情シスまで引いているWANは今まで512Kだったという。これではウィルスバスターのデータ更新が集中しては持つわけがない。そうでなくてもファイルサーバー以外はメールやら何やらすべて本社情シスに置いてあっただけに容量不足になることは判っていたはずだ。
近日中に1.5Mに上げるそうであるが、つまらぬ金をケチったがための余計な手直し費用が増えてしまったのである。WANの話だけに限らずここの事務所の発想は昔からみみっちい吝嗇をすることにかけては社内でも出色の存在として有名なのだ。

2001.12.04:

今日は日も暮れてからイタリアからくそ馬鹿馬鹿しい電話があってどっと疲れた。
そうでなくても昼間はこれまたトラブルを起こしてもリカバーに走らない情シス担当者に、業を煮やして怒りのメールを投げつけるということまであったのにだ。もうアホを2乗にした連中ばかりを相手にしたのでこれ以上筆が進まない。もう寝よう。
(-_-).。oOO グゥグゥ

2001.12.03:

TVで女優・吉永小百合のインタビュー番組を見ていたらあることを思い出した。99.01.15日の日記に書いた、若者が自分の仕事のことを「お仕事」と呼ぶことについてである。
彼女の発言を聞いている限り「お」を付けることはなかった。もちろん私の年代から上で「お仕事」という言い方をする人はまずもっていない。ヨメハンも違和感を感じると言い、かつこの言葉が使われだしたのは松田聖子あたりではないかという。そうなると20年くらい前になるようだ。
私がこのことにこだわるのは、やはり自分の仕事に対しての姿勢というか、大袈裟に言うと「哲学」の基本問題だと思うからである。前回も書いたように「お仕事」という呼び方の根源は芸能界であることはほぼ間違いなさそうである。そこからこの言葉の持つニュアンスがおおよそ想像できる。つまり自由業という一匹狼的仕事の性質上それは自らの営業活動によって仕事を受注するということで生活が維持できるという環境であるから、連続して仕事がないとたちまち次の日から食うに困る。だから仕事があることは貴重であり、ありがたくいただくものという観念が根付くのであろう。
しかし我々のようなサラリーマンの仕事にこのような概念を当てはめる事は出来ない。大きな違いはタレントのような自らのキャラクターという生産用具(無形ではあるが大工のハンマーやのこぎりと同じものである)を持っていないことである。また持っていないが故にサラリーマンは雇い主が与える道具でかつ割り当てられた仕事をこなさねばならない。どんな仕事をやるかは常人には不可能なことを要求されない限り何でもやらねばならないしどんな仕事をするかの選択の自由は非常に狭い。そのかわり一旦仕事にありつけば自らの営業(会社としての営業ではない)はやらないで済むし、毎日の生活はまあ何とか続けられる。
しかし今の若者が発する「お仕事」という言葉にはそういう違いが見えない、あるいは実感としてなくなりつつあるのではないかと感じさせられる面があるように見受けられる。
その点については次回に書く。

2001.12.02:

今日NTTから連絡が入って、ADSLの工事日は10日と決まった。
但し予想したとおりというか、局からの距離が約4Kmあり、スピードは落ちるとのこと。しかしそれよりももっと問題なのは1Kmでも発生したという、まったく接続ができない可能性も残されているので覚悟してほしいということだった。NTTはAnnx−CなのだがそれでもISDNの影響が避けられていないのが現状らしい。
そんな話を聞いていたら、ノーブランドの増設メモリをPCに差し込んだときのあの緊張感を再び味わうのかと、どきどきしている。

2001.12.01:

壊れて入院していたモバイルPCが退院した。
やはり内部のモデムカードが脱落していたという。ホテルの部屋には化繊のじゅうたんが敷いてあったが、1m以上ある私の腕から落ちたのでは仕方あるまい。
次回は気をつけよう。・・・とはいうものの「次回」とはいつになるのか、それは不明である。