悪餓鬼日記帖:なにぃ、文句あっか! |
99.10
1999.10.31:
家の中の家電製品のY2K問題が急に気になって、メーカーのHPで調べたがいずれも問題はないようだ。
自宅PCは一応マイクロソフトのY2Kアナライザーでチェックした上、パッチをインストールした。もちろんこれで完璧というわけではないが、リスクは小さいほど良い。会社のPCは新品マシンだが、プリインストールされたソフトにはY2Kパッチが入ってなかった。だから早急に入れる必要がある。
ところで、新幹線組は今回のマシン更新でY2Kに対応できないDOS機を全部駆逐したが、陸蒸気組のわんさとあるDOS機はどうするんだろうか? 他人事ながら気になるところではある。
1999.10.30:
昨日書き忘れた話だが、私の隣席の同僚宛に韓国からウィルス入りメールが送られた。
幸いにして会社のメールサーバーにはワクチンが仕込んであるので、検知されるとウィルスを駆除した上でサーバー管理者から本人に通知される。今回のは添付EXCELファイルについたマクロウィルスだった。私のグループでは初めての感染だ。「やっと世間並みになったな」と言ったら苦笑していた。
1999.10.29:
月曜に新しいPCが来て以来、自分のマシンの他にデスクトップ1台とノート3台のセットアップをすることになって大忙しだった。特にデスクトップ1台のTFTは最初から不良品で返品、おまけにホストの出力として動いている付属のプリンター(これは交換してない)が、マシンが変わってから文字化けを起こすわ、これの回復だけにものすごい時間を食われるという散々な目にあった。
さすがに個人ファイルの待避作業だけは本人に任せたが、それでもネットワークプリンターのセットアップにトラブルが発生するなど、丸々1週間を潰してしまった。お陰で自分のマシンはアプリの初期設定と個人持ちのソフトを数本インストールしただけで完全なカスタマイズはまだこれからである。
来週はこれらの残り作業と、不良TFTの交換、さらには未入荷のデスクトップもう1台のセットアップが待っている。今回改めて驚いたのはFMVを作っている某メーカーは出荷前のマシンを全数チェックしていないことである。入荷した29台の内TFT1台とデスクトップ本体1台が不良品であった。
私が忙しくなった訳にはもう一つの理由がある。本来は職場の世話役は以前から別にいるのだが、彼は「ドライバ」とか「SCSI」とかの言葉を全く知らないので、何かトラブった時のリカバーが全く出来ない。それで職場サポート幹事長が私にセットアップの手伝いを頼みに来たのである。PCの話で頼まれるとイヤとは言えない私の「悪い」性格が出たようで、冷や汗をかきながらも仕事を続けている始末である(笑)
1999.10.28:
母の手術後のその後だが、順調に回復、来週からは体重をかけた歩行訓練を始める。現在でも既に足の筋肉を動かし、人工骨頭を入れた関節も動いている。筋肉の衰えも殆どない。現代の医療技術の進歩には感心するばかりだ。
最近特に感じることだが、例え内臓の手術後であっても2日もすれば積極的に体を動かすように指導される。臓器同士の癒着を防ぐことと、筋肉の衰えを少なくするためである。老人の場合は気をつけないと寝たきりや痴呆になってしまうこともあるという。集中治療室での生死に関わる治療以外は「絶対安静」という言葉は死語になりつつある。そう言えば高齢者出産、いわゆる「マル高」も病院から消えた。
1999.10.27:
今日は朝からの大雨で、JRのダイヤ(関西)は乱れっぱなしだった。今夜は関東・北陸から北は大荒れの天気だという。久しぶりの雨はいいが、やけに派手な天気だ。
今の事務所は鉄骨スレート造りで、屋根はカラー鉄板。小雨でも滅茶苦茶大きな音を立てる。最初は驚いたが少しは慣れた。また天井裏には断熱材が入ってないので夏は暖房、冬は冷房、と前の住人が語っていた。今はしのぎやすいが、冬になったらどうなるんだろう。
1999.10.26:
さて、新しいマシンを公開する。
本体に貼ってある黄色と緑色のラベルは会社の登録番号を打ったもので、台帳には管理者とかIPアドレスを記入してある。また、いつリース切れになるかもわかるようにデータベース化してあるのだ。
写真を縮小したので少し波打って見えるが、ご勘弁を。実はこの画像は手持ちのデジカメで撮ったものをその場でPCに取り込んだものである。これから工場などで写したものを即座に社内外に送ったりできるようになる。
そう言いつつも、新しいおもちゃに喜んでいる自分である(笑)
1999.10.25:
さて、会社の新しいマシンが来た。スペックは、
型番: | 富士通 FMV6400CL3c |
CPU: | CELERON 400 |
メモリ: | 127MB |
HDD: | 6.4GB(FAT32) |
ディスプレイ: | 15インチTFT |
である。何といっても15インチTFTは出色である。ノートPCの液晶とは明るさが違う。スクロールの速さはブラウン管に劣らない。難点はスクロールする時の残像が少し長いので、JAVAやビデオ画像がやや見づらい程度である。
ともあれ、HDの容量が大きいので今迄のようにケチケチした使い方はしなくて済む。ありがたいことだ。今日は半日をつぶし、明日はまたカスタマイズの続きをやる。
1999.10.24:
何気なくTVを見ていたら野球界にも和製英語があるという話をやっていた。
例えばホームベースへ突っ込む走者と捕手が交錯する「クロスプレー」は、向こうではbang-bang
playと言うらしい。「フォアボール」もwalkと言う。
う〜む、野球の世界にまであるとは知らなかった。
1999.10.23:
いよいよ週明けは会社のマシンの更新である。昨日は帰宅前にデータバックアップの準備をした。
月曜の朝にはメールなどを見てからデータをサーバーに一時避難させ、マシンを入れ替える予定である。それと、自分のマシンの他に4台も更新するのでその準備もせねばならない。恐らく月曜は入れ替え作業のみで、他の仕事は出来ないだろう。来客は全部断った。
さて、心の準備もしておこう。
1999.10.22:
外国語アラカルト・14
和製英語というのがある。いかにも英語らしく聞こえるが、実はあちらの辞書にもない日本で勝手に作られたものである。知らずに喋ると「それ、何?」と聞かれるのがオチなので注意が必要である。
昔から有名なものに「ナイター」と「ベッドタウン」があるが、今もちょくちょく新しく作られている。そのいくつかを紹介しよう。
「アフターフォロー」:確かCMでやっていたのが始まりのような気がするが、正確なところは知らない。after followと、ものすごく「らしく」聞こえるがそうではないようだ。会社でも何人かに聞いてみたがやはり否定的意見だった。通常ならfollow upとかafter careあるいはafter sales serviceというのが一般的である。
「コスト・インパクト」:これも「らしく」聞こえる。例えば全コストの50%を占めるものが10%のコストダウンになったとすると、これは全体の5%のコストダウンに値する。しかし10%を占めるものが10%下がっても全体としては1%にしかならない。このように全コストに対する重み付けを「コスト・インパクト」と日本では呼んでいる。
人に聞いた話だが、これをアメリカ人に使ったら「うまい表現だ。ぜひ使ってみたい」と言われたそうである。和製英語も馬鹿にしたものじゃない、と言うべきか。
「リストラ」:日本人はこういう言葉を縮めて言うのが好きなようだ。もっとも日本語自身がこういう短縮形を作りやすい性質を持っているのだろう。
元はアメリカで造られた新語restructuringだったと思うが、日本に来て元の意味がどこかへ飛んでしまって、今や人減らしを言い換えただけの言葉になった、という意味で敢えて和製英語のカテゴリーに入れる。さる解説によると、
リストラクチャリング:「企業を現状のまま放置せず、経営の効率を高めるために経営をなんらかの形で再建すること。 「リストラ」と略され、現在では「人員カット」の意味で用いられることが多い。
とあるが、「現在では『人員カット』の意味で」しか用いられていない状態である。向こうの人間が日本での実態を知ったらびっくりするだろう。
1999.10.21:
今日はもう呆れるばかりの話を聞いた。
かいつまんで言うとこうである。私の会社でも10年くらい前からフレックスタイムを採用しているのであるが、移転後は「フレックスを使うな」との「要請」が上から来ていた。現場は仕事の性質上フレックスでないからそれに合わせてくれという「理由」だったのが、当然若い人を中心に不満が出た。それで当面は我慢するが、何とか使わせて欲しいという要望が再三出ていたのだが、今日、意外なことを耳にしたのである。
何と移転組は「自主的にフレックスを使わないことを申し合わせた」話にすりかわっていたのである。どこでどう捻じ曲げられたのかは知らないが、今の若い人にこんな前近代的な発想をする人がどこにいるものか。
若い人の不満が他所にも波及することを怖れてのデマかも知れぬが、いずれにせよ「滅私奉公」の亡霊はまっぴら御免である。
1999.10.20:
例の図面焼付の問題、何度警告しても改善されないのでついに手を切ることになった。今日も10日前に出した図面が帰ってきたためだ。生産計画をやっている担当者は遂にキレたのである。さもありなん、土曜日に出勤して現場スタッフのところに行ったら「図面が遅い」とさんざんイヤミを言われたらしく、「休みに出てまで何で文句言われなあかんねん!」と溜息をついていた。
元々工場内の100%子会社で、それまでチンタラ仕事でも文句も言われなかったらしく、注意されても馬耳東風、暖簾に腕押し、糠に釘、とにかくひどいの一言に尽きた。それで今後は社外に出す。前の事務所で世話になった会社で、本当はそこに焼付の仕事を出すつもりだったのを、義理で子会社に出していたのだが、もう遠慮することはない。こちらの上司は子会社から翻意を促されても「これがあんたらの実力や」と一蹴する予定である
1999.10.19:
母が大腿骨を骨折し入院、今日手術を受けた。
強度の弱い股関節のすぐ下で骨折しているため、通常の接合はせず人工骨頭を入れた。他人と接触し、転倒したはずみで骨折したらしいが、特に骨粗鬆症でなくても老人は骨折しやすい部分らしい。X線写真を見たが見事にキノコ状の骨頭の下でポッキリ折れていた。
退院まで約1.5ヶ月、今からリハビリに励む。「寝たきりになりたくなかったら、リハビリ頑張ってね」と言ったら、「私もいやだよ」と。もっとも結果は予測できないが。
1999.10.18:
いつかは忘れたが、TV番組でアフリカのサバンナに棲む野生動物たちの生態を描いていた。それも草原の中にある水飲み場の変化を撮っていた。水飲み場には普段シカやカバ、サル、ワニなどが争いもなく集まり、水を飲んでいた。ところが乾季が始まると事態は一変する。互いに水を奪い合い、場合によっては激しい喧嘩となって傷つき、それがもとで死んだりもする。乾季の最後には、僅かに残った泥の中にいたワニが、空腹のあまりサルを襲うというシーンもあった。やがて乾季も終わり、雨が降り始めるとまた水飲み場は何事もなかったように平静さを取り戻すのである。環境の変化が動物たちの生活を支配していること、窮地に追い込まれた動物は、生き残るためには死にもの狂いの行動を取るというその姿を描いた作品であった。
振り返って人間はどうか。場合によっては人間同士が骨肉の争いをすることもある。しかし、だからといってダーウィニズム的な生存競争の原理について、人間と動物との完全な相似性を認める気はない。動物は自らの環境の変化に対して、子々孫々まで受動的であるしかないが、人間は社会の中に争いを調停する機構を作ってきた歴史があるからだ。もちろんそれは完全に機能しているというわけではないが。
動物界の実態から何を学ぶか、私は主に環境に柔軟に適応する動物たちの生命力に注目する。人間社会の中のささいな争いなんぞ歴史の中のほんのあぶくに過ぎない。
1999.10.17:
何年前くらいからだろうか、今もそうだが社名変更をする会社が結構多い。それも決まってカタカナを入れるか、全部カタカナにしてしまう。私は工業・産業製品を扱う会社との付き合いが多いのだが、その中で目立つのが「○○テック」である。
英語のTechnologyをもじっていかにもハイテク産業のような「イメージ」をねらってのことのようだが、大抵の場合仕事の内容が変わるわけでもないので、変なカタカナを使っても何とも思わない。変更にともなう看板の書き換え、カタログの作り直しなど一度きりの無駄な経費を使うより、従業員に今迄の労をねぎらって還元するほうがよほどマシだと思うのだが。さらにもっと問題なのは右へならえして社名変更する「横並び体質」である。浪費まで真似をしてどうするのか。
無駄な経費と言えば、しょっちゅう組織をいじることもそうだ。私の会社も重役のポストを与えるための組織変更や、それ以外にも部課の統廃合が年中行事のようにある。その度に席替えをしたり、ゴム印や名刺を作り直す。
時代とともに会社も変わるのだろう。しかし資源の浪費だけでしかないような「流行」はやめるべきだ。ましてや「リストラ」と称する流行など、もってのほかである。
1999.10.16:
工場内にある事務所のため、時としてヘルメットに安全靴姿で現場に出る。15年ぶりの作業服姿である。その昔は工場建設で現地に長期間いたこともあるので、完全防備の作業服に違和感はない。ただ、靴は新しいので、馴れるまで少し時間がいりそうだ。
実際の物作りをバックアップする仕事だけに、工程・品質のトラブルが発生すると出ていかざるを得ない。というより昔の経験があるので現場に出るのは嫌いではない。それとトラブル対応のために、現場を見て状況判断をせねばならない。若い時に走り回っていたのが幸いして、大雑把ではあるが緊急を要するかしないかの見分けは付く。
今まで意識したことはなかったが、「若い時の苦労は買ってでもせよ」という意味をこの年になってやっと知った。
1999.10.15:
今朝は通勤電車の事故の影響による珍しい光景を見た。
事故が起こったのは私の乗っていたのとは反対方向の電車。私が駅を出て踏切に来ると人と車の長い列が出来ている。警報機はずっと鳴りっぱなしで開かない。しばらく待ったが電車が来る様子もないのに遮断機は降りたまま。
そのうちに待ちきれない人達は踏切の横にある歩道橋を渡り始めた。私も線路の向こうにあるバス停に行かねばならないので、同じく歩道橋への列に加わることにした。歩道橋の上からは電車の姿は見えなかった(実はカーブの向こう側にいた)。
バス停に着いたあたりから、やっと電車が来た。電車が来たのでやれやれと思ったら、今度は次々と電車が通過していく。どうやら溜まっていた後続の電車が一斉に動き出したせいらしい。結局20分くらい開かずの踏切状態が続いた。車で待ちつづけていた人達はさぞイライラしただろう。
後で報道を見たら、最初の電車の窓が原因不明で突然割れたらしい。
ちょっとしたハプニングだった。
1999.10.14:
外国語アラカルト・13
昨日韓国の人間と食事をしていて、ちょっとした質問をした。名前で男女の違いがわかるかどうかである。
曰く、「順(スン)」「淑(スク)」「恵(ヘ)」「子(ジャ)」などが付くのは女性だという。なるほど、日本と似ている。
それにひきかえ、欧米はわかりにくい。うすうす感じているのは最後に"a"が付く時と、月の名前は女性らしいということだけだ。仕事でAprilという名前の女性とやりとりをしたことがあった。
それにしても男女の違いが分からないので、メールなどでMr.をつけると「私は女性です」と言われることがしょっちゅうある。どなたかそこらへんのルールをご存知ありませんか?
1999.10.13:
今日は一言だけ。
3000アクセス達成しました。皆様のご愛顧に感謝します。
嬉しいことに会社のPCがいよいよ25日に更新されることになりました。
1999.10.12:
「安全神話」の話を今日も引っ張る。何故かと言うと、「日本の常識、世界の非常識」の典型の一つがここに強く表われているからである。
「原子力は安全」という方針は日本だけで、海外では「原子力は危険なもの」が常識である。原子力開発の元祖アメリカでさえ、スリーマイル島事故以来徹底した事故対策を取るようになった。原子力を止める止めないに関係なく、危険だから取り扱いは慎重の上に慎重を期して扱うということである。だから今回の事故については「信じられない」が海外の基本的論調である。ついに国際原子力委員会(IAEA)も調査に動き出した。
それにしても日本の関係者(専門家を除く)は原子力のことを知らなさすぎる。というか、「安全神話」の先入観が邪魔をして事実を見る目をなくしている。事故後の茨城県の農作物を食って喜んでいる姿はあまりにもみっともない。例え安全だとしても、それは原子力の本質を国民に隠すためのイチジクの葉でしかない。
物理・化学の教科書に出ている記述だけでもおおよそのことはわかる。私が調べた原子力の基礎はこうである。
1.天然ウランにはウラン235が0.7%、ウラン238が93.3含まれる。(ウラン234もあるが非常に微量)
2.原子力発電には遅い中性子で核分裂を起こすウラン235を数%に濃縮して使う。
3.ウラン235に中性子を当てるとストロンチウム38、キセノン54、中性子に分解して同時に熱を出す。
4.分裂時に出る中性子は別のウラン235に衝突し、次々と「連鎖反応」を起こして熱を発生し続ける。
5.連鎖反応を制御し、発生した熱を冷却水に伝え、蒸気にしてタービン発電機を回すのが原子力発電。
6.一方、連鎖反応を急激に起こさせ、その爆発力を利用したものが原子爆弾。
7.燃料に含まれるウラン238は炉の中の早い中性子を吸収してプルトニウム239になる。
8.プルトニウム239は2万4千年の間放射線(α線)を出し続け、ウラン235になる。なお、プルトニウム自身も核兵器になる。
今回のJCOの事故は2.のプロセスにおいていきなり4.の連鎖反応が起こる「臨界」になってしまったのである。臨界は濃度が高いほど、また量が集まるほど起こしやすい。さらにJCOの工場には5.の連鎖反応を制御または停止させる設備が何もなかった。事故直後、所長は6.のプロセスに進行しないか恐怖を感じたと言う。
おわかりと思うが、4.→6.への暴走と8.に危険が潜んでいる。また、8.の前提である7.のプロセスを避ける方法は現在の技術では未解決である。逆に7.→8.を使って核兵器開発がなされたのである
素人でもこれくらいのことは調べがつく。原子力に携わる者、ましてや指導的立場にある人間ならこれくらいの危険があることは知っていてしかるべきだと思う。
※先日の手話についての国際性について、そう簡単ではないとの指摘を受けた。お詫びと訂正をさせていただく。
1999.10.11:
「安全神話」の弊害について、懸念していた通りのことがまた起こった。JCOでの事故でヨウ素131が漏れたままになっていたことと、それを2日間公表しなかったことである。
それと世論は原子力発電そのものに対する不信感を強めている。政府と電力会社が繰り返す「安全神話」をいよいよこの世から葬り去るべき時期に来たような気がする。
原子力発電をどうするかに関しては種々議論があるだろうが、当面は新たな原発建設を凍結すること(高速増殖炉などの新技術も含む)が大方の賛同を得られるのではないだろうか。
なお、原発による発電量が総発電量の30%にもなっているようだが、それは政府と電力会社が政策的に行ったものであるから、基本的に彼等が責任を持って解決すべきである。今後の電力需要の伸びに対しては、国民に「我慢せよ」みたいな一方的な要求は許すべきではない。もちろん代替エネルギーの開発が進むまでは電力消費を抑える何らかの措置を国民の側でも提案していかないといけないだろうが。
1999.10.10:
個人の自由と責任・8
最近マスコミなどで「指導力の発揮」という言葉を耳にする。でも「指導力」って何なんだろう?
そもそも指導者とはある一定の権限を(それに対する報酬があろうとなかろうと)その配下の人間に代わって与えられた特定の人間のことである。例えば誰にどんな仕事を割り振るかということ、あるいは対外的な決定権について、それが全員の合意がない場合でも、一旦その権限が与えられればその指導者は権限を自由に使えるということである。もし配下の人間がその指導者の命令に従う必要がないとなると、これは指導者が存在するという前提そのものが成り立たない。従って、以下は権限委譲が曲がりなりにも機能していることを前提として書く。
さて、「権力」ではなく「指導力」と書くのは何故だろう。ここには指導者の持つ権限は無制限であるのかどうかの問題が含まれていると私は見る。指導者の命令が唯一無二であるとするならば、答えは簡単である。ひたすら指導者の「ツルの一声」がすべてを決する。しかし、現代のように民主主義を基本とする社会において、例えそれが組織内のルールで裏付けられているとしても、無理なことを配下の人間に要求する権利までは与えられていないと見るべきだろう。もしそれを許すならば彼は「独裁者」に転化するだろう。
指導者と言えども一人の人間である。どんなに優れた指導者といっても個人の持つ思考と行動が全面的に常に正しいとは限らない。もし間違いをすれば彼一人だけでなく、多くの人間が巻き込まれる。それに問題が起こった場合、彼自身の責任は彼が辞任すればそれで済むかもしれないが、被害が多数の人間に及べば彼だけに後始末をさせることは物理的に無理だろう。だから指導者に無条件の権力を委任するわけにはいかない。
それにしても「指導力」とは何なのか。マスコミなどが使うこの言葉には何か安易な匂いがする。というのもこの言葉は政治の指導者に向かって使われることが多いことと、現在の政治の昏迷についてきちんとした分析もなしに、単に短時間でパッと解決して欲しいというだけの、きわめて無責任な姿勢が感じられるからである。
本当の意味での「指導力」とは、指導者の言うことがいちいちもっともで、納得して従うことができるということだと考える。権力を振り回したり、責任逃れの指導者を批判すること、またしっかりした指導者を選ぶこと、これが現代社会の指導者に対する一般的考え方なのではないか。
1999.10.09:
外国語アラカルト・12
これもヨーロッパの話だが、ヨーロッパの人間同士が隣り合わせになった時には少々の戸惑いがあると言う。というのも似た顔付きをしながら言葉も習慣も違うという日本ではとても考えられない状態があるからだ。例えばフランス人がドイツに行っても、言葉を交わすまではまず見分けがつかない。だから彼等自身も面倒臭く思っているようだ。ある仏英両語に堪能な通訳が一度ドイツ人(英語が話せる)とフランス人の間の通訳をさせられて、「お前ら隣の国同士で会話もできんのか」とぼやいていた。旧約聖書のバベルの塔の話そのもので面白かった。
それと対称的なのがアメリカである。アメリカはまさに人種のるつぼ。肌の色や顔つきが違っても皆同じ「アメリカ人」だから、逆に誰彼かまわず英語で話しかける。出張などでアメリカに行った日本人が町角で老人に道を尋ねられて困った、という話は良く耳にする。
世界は狭くなった。特に戦後はそうである。昔エスペラント語というのが提唱されたが、普及はしていない。唯一世界中で通じるのが手話である。聾唖の人達の方が国際交流は進んでいるかも知れない。
1999.10.08:
決算も一段落したので、途中でほったらかしになっていた仕事をやったり、整理していなかった書類を片づけるなどしていた。ところがこういう時に限って夕方になってからヨーロッパから連絡が入ったりする。おまけに今日はホストのプログラムがこけた。何とスタートから4年間一度も使ったことがないルーチンに初めて入ったら、見事にバグが見つかったのである。
心すっきり仕事を片づけ、定時で颯爽と帰るという生活を一度してみたいものだ。
1999.10.07:
本邦初公開!
4年もの間親しんできた会社の愛機ともあと少しでお別れとなった。
右の写真はその仕事机のものである。右下の小さな箱は、仕事で余った中古モデムを設計からかっぱらってきたものである。自宅のメールを見たり、FAX送信用として使っていたが、1ヶ月ほど前から接続しているCOM1が死んだままである。ディスプレイとFDDも2代目になっている。
HDDは不思議なことに脱落クラスタもなく、残り120MBでキャッシュに苦労しながら一生懸命働いている。もっとも最近は起動がうまくいかない時もあるので、油切れかもしれない。
ともあれ長い間ご苦労様、少ない余生を無事送って欲しい。新品と交換された後はリース会社に引き取られ、そのまま産業廃棄物として処分される予定だ。心を持たない機械とはいえ、一抹の寂しさを覚える。
本当に長い間ご苦労様。お世話になりました。m(__)m
1999.10.06:
昨日書いた「典型的な被爆者の症状」であるが、これと同じ症状が放射線あるいは抗がん剤で治療を受けた人の副作用として現れることがある。
理由は増殖の早い細胞、例えば小腸の絨毛、血液と血液を作っている骨髄、皮膚、毛髪の細胞のDNAが傷つけられ破壊されるという点で共通しているためである。ただがんの治療では被爆者のような熱線による火傷はない。
ガン治療に伴う副作用は現在のところ完全には避けることができない。例えばシスプラチン(PtCl2(NH3)2)という有名な抗がん剤はDNAの2本鎖の間に食い込んで細胞分裂を阻害する。ガン細胞は増殖スピードが早いため、分裂に失敗する確率が高くなることを利用しているのである。ところがシスプラチンに限らず抗がん剤にはガン細胞と正常細胞を見分ける力がない(見分ける方法を我々が知らないというべきか)。従って増殖の早い正常細胞も同時に被害を受けるわけである。
もし、ガン細胞だけを殺す方法が見つかればノーベル賞ものだろう。ガン治療も日進月歩、特に80年代からは格段の進歩を遂げた。しかし、ガン抑制遺伝子p53が細胞増殖に重要な役割をしていることが見つかって以降、マスコミに出るような画期的な発見はない。また治療法も遺伝子治療が端緒についたばかりで、年間25〜30万人のガンによる死者が顕著な減少を見せているわけでもない。今は産みの苦しみの時代かも知れない。
さて、振り返って原子力利用の技術だが、原子炉の数は増えたものの技術的な進歩があるのかどうか、私は詳しくないので断定は出来ないが、日本では高速増殖炉とかプルサーマル計画などリスクの大きいものばかりが先行しているように見える。原子力技術の真の進歩が目に見えるのはいつになるのだろうか。
1999.10.05:
今回の東海村での事故で49名が被爆した。内3名は重傷である。重傷の人達は嘔吐、下痢、血球の破壊など典型的な被爆者の症状が出ているので事態は深刻である。
放射線がガン治療に使われていることは誰でも知っているが、浴びる線量が桁違いである。また治療用のものは適度に細胞を殺す(とはいえ副作用はある)が、ウランから出る中性子をまともに浴びることは致命的である。
それだけの違いがありながら、なぜ片方は事故も殆どなく生命を救うために使われ、もう一方はバケツで運ぶような杜撰な管理が出来るのか不思議でならない。放射性物質の性質の基礎をしっかり学んで欲しいものだ。
私は電気を専門に学んできたので、よく「あんな目に見えない恐ろしいものをよく扱えるなあ」と言われる。答えは至極簡単、「電気の性質を知って、計器で目に見えるようにしてやれば問題なし」である。それとなんと言っても絶縁物で隔離すること、これが基本である。
基本を忘れて安全はない。さもないととんだしっぺ返しを食うものだ。
1999.10.04:
おとといあたりから急激に気温が下がって、寒く感じる。何しろ7〜8℃も下がっては体がびっくりするはずだ。
さて、先週末のトラブルが解決してホッとした。しかし何故ヘッダーが飛んだか、その原因はまだはっきりしない。今日情シスの関係者がやってきて少しだけ覗いていったが、よくわからないらしい。しかし月末までに何とかしないと、月末処理でまたおかしくなる。
お待ちかね、いよいよ今月中に仕事机の上のマシンが入れ替わる。楽しみに待っていよう。
1999.10.03:
今回の東海村での放射能漏れ(というよりも垂れ流し)事故は深刻である。世界中からも注目されている。漏れた量は少ない(それでも致死量は超えた)が、スリーマイル島やチェルノブィリにも劣らない重大性を帯びている。
最大の問題は安全性を持った設備になっていない点である。会社としての責任放棄と断言して差し支えない。設備の不十分さを裏マニュアルにすりかえ、さらにはそのマニュアルをも作業員に無視させるようなやり方は許せない。百歩譲って作業員が危険性を予知できなかったとしても、安全だと勘違いさせるような手順を取らせること事態に問題がある。バケツで放射性物質を運ばせるなどとは、正常な神経では考えられない。最近はどこの企業でも労災事故を防ぐための手順について作業員には口やかましく言う時代なのに、放射性物質を扱う工場とは信じがたい杜撰さが明らかになっている。もし死者が出たら殺人とみなしてもいいくらいである。
それにしても「安全神話」はもうやめてほしい。百害あって一利なしである。
今回も出てきたが、核燃料処理工場は役所の安全管理の対象外となっているらしい。「安全」だからである。
「安全神話」の最大の問題点は事実を覆い隠す点にある。すなわち「安全」だから事故対策マニュアルは最悪の事態を想定できない。しかし事故は起こりうるし、また起こっている。ところが詳細な事実を書こうすると「安全神話」が崩れる。すると事実を隠したり、事故を小さく見せようとする心理が働く。結果として反対派や住民から猛烈に突っ込まれて答えに窮したあげく、「安全だから」と強弁して真面目な議論を中断する。「安全神話」はこういう悪循環を再生している。
危険は危険として正確に認識すること、これが対策を考える上で最も重要である。病気に対して最適な治療法を選ぶことと同じである。そのためには正確な情報が不可欠である。それを言葉で隠しても解決にはならない。
現在の原子力を扱う技術は、冷静に見てまだ未熟である。特にウランの核反応を制御する方法は非常に複雑で、かつ発生した放射線を外に出さないためには大掛かりな設備を必要とする。
現在の技術で十分なものと困難な部分とをはっきりさせ、もしも事故が発生した場合にはこうした対策を取る、ということをすべて公開すれば良い。そこから先は国民の判断に任せるしかない。もし原子力の利用をやめろという結論ならば従うしかない。それが民主主義というものだ。
1999.10.02:
外国語アラカルト・11
最近の若い人達の歌にはよく英語が混じっている。しかし聞いていて違和感を感じることが多い。何故かと言うと、メロディー上のアクセントと文章上のアクセントの位置が微妙にずれているからである。残念ながらこれはネイティブでもない限り困難と言わざるを得ない。だから無理して英語の歌詞を入れなくてもいいと思うのだが。
英語の歌で、いい勉強になると思うのは、カーペンターズの"Top
of the
world"ではないだろうか。メロディーも歌詞もシンプルで覚えやすい、と同時に英語の発音をしっかりつかんでいないとリズムに乗れない曲である。
最近ヨメハンが英語の勉強を始めていて、ラジオ講座に紹介されていたこの歌を時々口ずさむ。実力のほどは・・・ご想像にお任せする。
1999.10.01:
決算が終わってホッとしたのも束の間、決算データの経理DBへのコンバートが失敗して大騒ぎになった。
数個のデータのヘッダー部が丸ごと消えていたのが原因だった。しかし何故ヘッダーが飛んだのかは不明である。とりあえず情シスは手動で欠落データの回復を行い始めたがいつ終わるかわからない。深夜、あるいは明日も出勤して原因究明と回復をするらしい。回復したデータに異常が無いか確認できるまでいてほしいとの要請があったが、私はバスがなくなるのを理由に先に帰らせてもらった。月曜に改めて確認する。
さて、今日もまた愚痴を書く。
というのも、例の図面焼付のトラブルの後も事態は全く解決されていないことがわかったからである。決算の10日くらい前から、私は決算処理に必要な書類が回ってくるのを待っていた。担当者からは書類の原紙が焼付に回っているのを聞いていたので首を長くして待っていたが、なかなか焼き上がって来ない。それでは決算に間に合わないと見た私は、自分のPCから直接原紙を再出力する方法で急場をしのいだ。そして今日、何と21日に依頼したコピーが今朝になって上がって来たのだった。ついに私は「こんな仕事はもうごめん」と上司に怒りをぶちまけた。