拝啓、

寒さ厳しき折り、いかがお過ごしでしょうか。
あれから1ヶ月も過ぎて、少しは元の生活に戻りつつあります。
電気・水道・ガスもやっと来ました。けれども交通機関や衣食住はこれから月あるいは年単位でしか改善されないでしょう。なにしろ鉄道、道路の高架はぼろぼろ、下町の商店街は全滅に近い状態ですから。
いつも利用しているJR六甲道の駅はぺしゃんこ、駅周辺のショッピングセンターは立ち入り禁止、当然ながら一般商店は先週末にやっとほんの数軒が残った商品で店を開けはじめたばかり。だから食料品は団地内で間に合うけれど衣料品などのちょっとした買い物は西宮以東でないと手に入りません。陸の孤島といった状態です。
本当に地獄を見た気がします。先日もドイツ人が仕事でわざわざ会社までやってきて、同行した商社の人が言うには、大阪から住吉駅を降りてタクシーに乗ってからは言葉を失い茫然としていたと。そして打ち合わせが終わってさらに西に向かうために電車に乗り、今度はまた新長田付近の焼け野が原を見てまた黙りこくってしまったと。まあ地震のない国でもあるし第二次大戦を知らない世代の人だからでしょう。
それにしても、脳味噌がやられています。会社でも患者がごろごろしています。共通する症状は、体がまだ揺れているような感じが残っていることと、余震に対する恐怖感で何かガタンというような音だけでもドキッとしてしまうことです。寝付きが悪くて困っていましたが、大分よくなりました。けれども地震後は倒れるものの少ない台所の横の6畳で一人で寝ていたのが、この前家族そろったのでそれまでの8畳の間で3人そろって寝ようとしたら、当日のことを思い出して寝られなくなりました。仕方がないので強い眠気が来るまで起きているしかありませんでした。

ここからは被災者のぼやきと思って読んで下さい。

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明日は一人で起きて飯を作り、出勤しようと前の夜は10時ごろに寝た。そして夜明け前。地震の直前には必ず目が覚める癖で、パッと目が明いた瞬間のこと、ピリッとくる前触れにいつものとおり地震だなと思った直後、ドドッと揺れが来て(たぶん縦揺れだったのだが記憶はあいまい)すぐに電気が消え、バリっともドーンともつかぬ轟音とともにそのままジェットコースターのような揺れに変わった。とても布団からは抜け出せず揺れに身を任せるしかない。建物が南北に傾いた時は、ああ建物が倒れてこのまま死ぬんだなと感じた。そこから揺れがおさまるまでの間の記憶は穴が空いたまま。あとでテレビを見たらこの揺れの時間はたったの20秒。生きるも死ぬも20秒で決着がついてしまうとは。
揺れがおさまってから真っ暗な中を床を這って玄関の横の下駄箱から懐中電灯を探し、玄関のドアが開くかどうか試す。素直に開いたのでそのまま外側にラッチをかけて固定する。すると向かいの家からも主人が出てきて「えらい揺れやったねー」との声。「ラジオで何があったか聞こうか」ということで家の中から数日前に送られてきた兄貴の形見のラジオ(こんなところで役に立つとは思わなんだ)を捜してスイッチを入れると、「ただいま地震がありました。」という放送。そのうち下から人の声がするのでとにかく降りてみようということで外に出ると、棟の人達が三々五々集まりはじめていた。誰彼なしにあそこの部屋は大丈夫かということで点呼をとりはじめていた。何人かは車の中でラジオととエアコンをつけてもぐりこんでいた。
「神戸は震度6、いや5ゆうたぞ。」「いやまた6に訂正や。」との情報が飛び交い、「おれは昔鳥取の大地震から2回目やで。もういらんわ。」とは初老の男性の言。そんなことを話し合いながらしばらくすると少しだけ空が白みはじめるとともに下町からは何個所からも火が見えはじめた。その時気が付いたのは一切が活動を停止したせいか、火の手以外はすべて暗闇でやたら静かだったこと。この静けさは一日中続いたように思う。
寒さと恐怖、何度も来る余震に震えながら、何人かで建物の損害がないか見回ると一応外見は損害なし。もっとも今頃になって本棚の裏になっていた増築部と本体との継ぎ目に入れてあるベニヤの内装材が縦に割れているのを発見したが。
ラジオはそのうち各種の被害報道に変わり、やがて高速道路の倒壊や鉄道の全面運休など伝えはじめる。それが6時半から7時頃、事の重大さを感じ、電話のバッテリーがまだ残っているのを見て電話をいれるが、この時点では渋滞なしにかかる。ヨメさんは「今日の内に帰る」というので、電車も動かないのでとりあえずそこにいろと説明。やがて本格的な夜明けになったので作りおきのおでんを食べる。この時点でも町の火事は一向に消える様子はなく、さらに火が強くなるところも。
8時ごろ、空も明るくなったので一度外に出て周辺の様子を見に行く。団地の中はさほど被害はなく、一戸建のブロック塀が倒れているのが2個所程度。車で下を見にいった若者が、六甲道の駅が潰れ線路の高架もバタバタ倒れていると報告。家がみんな壊れている、ガス臭いところもあったと。また、警察・消防署の前には行列が出来ているが数が多くて手がつけられない状態だと言う。えらいこっちゃ。バス停には50がらみのオジサンが一人バスを待つ風情。「こんな状態だからバスなんか来るはずないと思いますよー」と声をかけると、素直に帰っていく。ようやるわ。(役人でもないのに、6−7時間歩いて会社に出勤した御仁もいたそうな。)
時間が経つだけでとりたててやるこもなく、会社にいけるわけでもないので歩いて六甲道まで行くことを決心。これが8時過ぎ。
神戸大学の下、阪急に近いところまで来ると、地割れ、道路の段差、一階がぺしゃんこの家、全壊の家、これは見るに堪えん。小学校にはぼちぼち近所の人が集まり始めていた。阪急六甲駅南側の八幡神社は本殿が倒壊。境内入口の石の鳥居は当然アウト。そこから少し行ったところにある文化住宅は完全にごみの山。続いて驚かされたのは5階建のコープのビルの一階がへしゃげている光景。アーケードを隔てた向かいの、飲食店などの入った雑居ビルもこれは完全に一階がなくなって2階が1階になっている。もう少し南へ行くと六甲道の駅。ああ、何よこれ?!
何と3−4メートル上にあるはずの高架の桁が目の高さまで来ている。ひょっとして生き埋めが?
コンコースの入り口のドアを見るとガラスがなくなって隙間ができている様子。駅員も逃げきれたかなと、少しは安心。駅の西側まで行くと、道路を跨ぐ高架部分はこれは完全に地上に落下。ここで高架の下をくぐるのは危険と判断して引き返すことにする。
駅の北西で煙が見えたのでそちらへ。しばらく行くと、余震あり。道路に座り込み毛布を纏っていたおばさんが「ほら、また余震がきた!」と半泣きの声で叫ぶ。付き添っていた数人がなだめる。煙の出ていた商店街の西の端が50メートル四方くらい焼け落ちて広場になっている。まだ残っている家との境界のところでは崩れた材木が燃えつづけていて、消防団の人が防火水槽からエンジンポンプを使ってホース一本で水をかけているが、水の勢いが弱く、どうしようもないといった感じ。消防車は1台も来ていない。いつも腕時計の電池を入れ替えて貰っていた時計屋は跡形もない。おじさんどうしたかしら。(後で死亡者の名簿を見たけれど、なかった)
家に戻ったところで、向かいの家の主人が車から降りたところ。おばあさんがいるので何かと聞いたら奥さんのお母さんで、御影の家が心配なので見にいったら案の定生き埋めになっていて、助けてきたという。寝間着は泥だらけでスリッパのまま。寒い寒いと言いながらでも足取りはしっかりしてた。
被害の情報が続々と入りはじめ、三宮のビル街が壊滅的になっていることもわかる。再び手持ちぶさたになり、コーヒーを飲んだりしているうちに11時。早めに又おでんを食べる。ガスの供給を停止するとの発表、しかしまだ出ている。その頃から会社の被害状況と通勤手段がが少し気になり、また被害の状況を確かめたくなって再び家を出る。12時前。会社まで片道3時間、往復6時間と見積もり、いけるところまでいってやれとゆっくり歩きはじめる。
阪急六甲から線路沿いに西へ歩く。もうめちゃくちゃ。一戸建だけでなく、小さなマンションもやられている。別の火災現場も通る。ここは消防車が来ており、消防士も何人かいて水をかけているが、火の勢いが強く話しにならない。道路に止めてあった車も燃えていて,警官が立ち入りを制止している。ここで感じたのは、近所の人達がわめくわけでもなく、ひたすら家の中の物を運び出しているか黙って立っていること。さらに西へ。
動物園までくると、線路がゆがんでいるのが目についた。動物園の隣にある陸上競技場の石垣に大きな割れ目あり。小さな店の並ぶ古い商店街はどこも悲惨。残った家で立っているように見えてもほとんどが傾いている。風呂屋は煙突が倒れ、道路は波打っていて歩きにくいこと。
車で逃げる人が多く、道路は大渋滞。消防車やパトカーがスピーカーで道をあけてくれとわめくが、脇へ寄ろうにもスペースがなくお手上げ。
三宮が近づく。電車の高架は、コンクリート部分は崩れていないが道路の上を走る鉄骨部分で落ちかかったり歪んでいるものあり。三ノ宮駅に来てあっと驚く。ビルの途中の階でへしゃげているのが多いこと。北東より阪神銀行1階、さくら銀行のある日本生命7階。少し離れたところにある不動産屋のビルは大きく傾いている。30度はあるか。(このビルはその夜余震で完全に倒れた。)さらにへしゃげているのは、阪急三宮駅1階と映画館のある6、7階、線路の南側すぐの通称交通センタービル3階、サンプラザ(ショッピングセンター)8階、そごう2階、その東隣三宮ビル北館4階。(あとで市役所もやられているのを知った)いったいどんな力がかかったのかとただただ驚くばかり。
ここまで来て、3時を過ぎたので会社まで足をのばすのはやめ、帰りは国道2号線沿いに東へ歩く。通勤?−−−冗談じゃない!
しばらく行ったところにある生田川を越えたところで、4階建のビルが横倒しになっているのを見る。もう少しするとがれきの山が見え、人だかりがしている。生き埋めになった人がいるらしく山頂では数人が中に向かって何やら叫んでいる。涙が出る。
やがて工場街、ダンロップのゴルフボール工場は蜘蛛の巣のようにひびが入っていて辛うじて立っているだけ。重役らしき人物が工場の中へ入っていくのが見えた。やはりいちばん悲惨なのは神戸製鋼。事務所ビルが4つともやられ、内の1つは傾いている。
神戸製鋼の関連のビル街を抜けると阪神岩屋駅。ここから岩屋商店街が続くが、軒並み崩壊して道路側に飛び出している。もう道幅は半分以下。4時になった。家まであと1時間位。途中、被害を免れたローソンが店をあけているのを見る。長い行列が出来ていているが誰も黙って待っている。
家に帰ると電気が来ている。助かった。すぐにテレビをつける。それまでよくわからなかったことをこの時知る。新幹線の被害、長田の大火、目につかなかったがどんどん増える死者。
まだ水は出るし、ガスも出る。水は団地のいちばん高いところにある市の貯水タンクにかなり残っているらしい。ガスは配管の残圧があるらしく弱いけれど出る。(翌日には両方とも止まった。)6時、夕食にしたが何を食べたか覚えていない。それよりもしょっちゅう来る余震におびえる。20〜30分おきに、トンという壁を叩いたような音がしてはユサユサと揺れる。これには参った。こういう時、ひとりぼっちは無性に寂しい。
一人では何も出来ない、補給路を絶たれた、余震、もうどうしようもない、寂しい。明かりを消し、ラジオの音も小さく絞って寝ようとするがまったく眠れない。また余震。ついに脱出をを決心。阪急が西宮北口まで来ている、歩いて4時間か。ウトウトしながら時が過ぎるのを待つ。午前6時、妻に電話を入れ、脱出を伝える。最低限のものをリュックに詰め、玄関に貼り紙をし、鍵をかける。1階の老夫婦にしばらく避難することを告げて家を出る。
墓石が殆ど倒れた墓地。公園でテントを張って寝ている人達。消防レスキューは長岡京市、城陽市、など京都府南部の消防隊が来ている。また涙が出る。若い女の子が二人ハンドバッグだけを手に毛布を纏って同じく東へ歩いている。芦屋の古い邸宅は総崩れ。夙川で休憩、リンゴをかじっていると中年女性が二人、静岡から遊びに来ていてホテルで被災、二日かけて歩いてきたという。関東大震災もこんな光景だったんだろうなと話し合う。2号線を歩いてきた時に目印にしいていた四輪駆動車がずっと平行して走っている、歩くのと変わらん。
10時前西宮北口着。梅田に出てからおふくろに電話、しんどかった。

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(中略)

まだまだ寒い日が続きます。風邪などひかぬようご自愛下さい。

 

敬具

2月26日、 被災地にて