海外編:


ベルリン
ロンドン
ヘント
ヌメア(ニューカレドニア)
ニュールンベルグ
アムステルダム
ブリエンツ
ゴルナーグラート
デュッセルドルフ
ハンブルグ
釜山
ケルン
ヨーク
ロアール川
パリ


[ベルリン]

ベルリンの壁が崩壊してから久しい。

もう16−7年も前になってしまったが、ベルリンには数回行った。印象が強いので最初に書く。というのは初めてのベルリンでいきなり訪問先の会社から東ベルリン周遊のバスツアーの切符を貰ってしまったからである。
当然当時は東西両陣営が睨み合いをしていた時代だから、壁の通過時には何が起こるんだろうと若干不安になった。そのことは後で書く。

ベルリンの立場は今から考えると妙なものであった。
時代は第2次大戦のナチスドイツ降伏直後、米英仏ソ連合軍がベルリンを占領したことに始まる。ナチス・ドイツの首都ベルリンは4カ国軍隊の管理下に置かれ、それぞれ担当地区の治安警備を行っていた。その内ソ連占領地域及び旧東ドイツは社会主義(旧ソ連の体制を社会主義と呼ぶかどうかは別の議論とする)的政策がとられた。そしてある日突然ポーランドとともに東独の「独立」が宣言された。これには当然他の3カ国が反発した。ソ連の軍隊が独立とともに撤退したとはいえ、東独は実質的にソ連の支配下にあり、おまけに連合軍の合意なしに一方的にやられたからである。同時に西側諸国の軍隊が駐留する西ベルリンは東独地域内の陸の孤島と化したわけで、いやがらせに見えても当然であった。

東側はさらに強硬な手段に出る。「独立」の確保、実際は東独から自由を求めて西へ逃れる大量の避難民を食い止めるために、1961年一夜にしてベルリンの壁が作られた。引き続き東西国境線も含めて頑丈な壁、鉄条網が築かれた。それ以降西ベルリンは東西対立のはざまで占領地のまま、どこの「国家」にも所属しないあいまいな立場を固定化されてしまった。西ドイツ議会には議席もなく(オブザーバーとされた)、出入口は数箇所に制限され、ルフトハンザの飛行機は飛べない(英国航空、エールフランス、パンアメリカン3社だけが西独から飛べた)など、不自由な生活を強いられたわけである。住民はたまったものではない。かくして西側諸国と西ドイツ政府の各種優遇政策があったとはいえ、ドイツ人の人口は減る一方で、代りにトルコ人を中心とした移民労働者が流れ込んできた。・・・そして時は流れ、壁は崩壊した。

さて、西ベルリンから観光バスで東に入るにはCheck point Charlieという検問所を通る。道路を通じて東へ出るには他にも数箇所あるのだが、鉄道は国鉄、地下鉄共通のFriedrich Strasse駅しかなかった。国鉄はここ以外壁で分断されていたが、地下鉄の2路線は西から東地区の下を抜けてまた西へ出るようになっていた。但し東地区にある駅は閉鎖してあった。この閉鎖された駅を通過する時の風景はなんとも言えないものであった。まず駅の前後はトンネルの壁と車両の隙間が数センチしかないように作ってあった。駅のホーム自体には手を加えてなかったが、ホームには銃を持った警備兵が立っており、上へ抜ける階段には壁があって一つだけ小さな鉄製の扉がつけられていた。こんな所で当直にあたった兵隊は一体どんな気分だっただろうか?

壁通過の印象は今もはっきり覚えている。
まずバスはCheck point Charlieの西ベルリン側の警備小屋と遮断機を抜ける。するとすぐに石積みの壁が正面に見え、バスはゆっくりと壁に挟まれた深い谷の中を右に左に180度づつ曲がっていく。ちょうど立山・黒部アルペンルートのバスが雪の谷間を走るような感じだ。この九十九折りが何回か続いたあと一旦広い駐車場に停まる。なんでこんなにカーブを作るのか、理由は簡単、東からの逃亡者の車が猛スピードで直進できないようにするためである。
駐車場でバスの運転手とガイドが東のメンバーに交代し、「入国」手続きが行われた。もっともパスポートをチラっと見るだけであったが。乗客は何があるかわからないので黙って成り行きを見ていた。バスが停車している間、妙な光景を見た。鏡のついた手押し車を持ってきてバスの下に入れた。車体の下に禁制品が隠されていないかチェックするためである。
東ベルリンは他の大都市と何ら変わらぬ風景であった。少し違うといえば、やたら歩行者が多いのと小型車(有名なトラバントだと後で知った)が目立つくらいか。壁通過の印象があまりに強かったので他の事はあまり記憶にない。西ではやはりポツダム広場の眺めか。戦前の繁華街だった広場は、周囲のビルも壊され、ど真ん中に鉄のバリケードと鉄条網、壁が横断するという殺伐とした姿に変わってしまったのである。そのポツダム広場は今年(1998年)ビルも再建され、市民の祝賀行事も行われたという。チャンスがあるならもう一度訪ねてみたいものだ。

ベルリン・終

 

[ロンドン]

ロンドンは一度だけ、それも大晦日から新年にかけて行った事がある。

ロンドンの英語は恐ろしい。訛りの強烈(有名なオージーイングリッシュのルーツ)なことと早口で、喋ってる事の半分がわかればいいほうだ。「エイ」の発音がすべて「アイ」になるあれである。

ヨーロッパでもアルプスの北と南では気候が全然違う。特に冬の北部は最悪で、曇りの日が多くかつ日照時間が短い。ロンドンもやはり曇りばかりだった。
一応有名な観光名所は回った。ロンドン塔・バッキンガム・大英博物館・等々。その中で注目したのは自然博物館だった。恐竜の骨格などがあって、自然史や人類史を知る上では格好の場所である。一番印象に残っているのはネズミの胎盤のホルマリン漬けである。なんでこんなケッタイなものを覚えているか。ネズミの胎盤というのはちょうどリング状になっていて、外側は放射状にネズミの胎児が1ダースくらいつながっている。ちょうど飾りのついたネックレスのようなものといったら理解してもらえるだろう。これで「ねずみ算」という言葉の意味をやっと理解したのである。

さて、大晦日のロンドン名物といえばトラファルガー広場のカウントダウンである。それを体験する事になった。
私が行ったのは1980年ころだから、まだ日本でもあまり知られてなかったし、私自身もそれと知らずにただ通りすがりで、何かあるのかな?という好奇心で見たに過ぎなかった。TV中継なんかでやるようになったのは最近である。
当日同行の会社の同僚と中華料理店で夕食をし、腹ごなしに散歩しながらホテルに帰ろうということになった。外は氷点下10℃くらいだっただろう。それでトラファルガー広場のところまで来るとすごい人だかりである。警官も沢山来ているし、パトカーや救急車もズラリ並んでいる。すわ、事件か!というには緊張感がない。何があるんだろうということで広場の中まで来たが、若者があちこちでたむろしているだけでどうってことはない。ただ酒を飲んでいるので、あれ?未成年が・・・という印象はあった。で、だんだん零時近くになるので、これは何か行事があるんだろうなということだけは解ったので、暫くの間広場の周辺と中心の間をウロウロしていた。でも何も始まる様子はない。仕方がないので警官に訊ねたら「さあ、何が起こるのかは俺も知らん」とすげない返事。この日だけ未成年の飲酒を見逃すという話は後日知った。
いよいよ零時が近くなると、時々担架が出てきて病人らしき(要するに急性アルコール中毒だとはこれも後日の知識)人を運んでいく。これで救急車の存在が解せた。そしていよいよ零時になって教会の鐘が鳴り始めたとたん、HAPPY NEW YEAR! という喚声が一挙にあがって、お互いに抱き合い、キスをする大騒ぎになった。中には若い女の子が警官に飛びついて頬にキスをするシーンもあった。もっとすごかったのは広場の真ん中にある噴水に飛び込む連中がいたことである。氷点下の気温だというのにである。一人だけ禿頭の初老のオッチャンが噴水に飛び込んだ。これはもう正気の沙汰とは思えなかった。

約30分くらい広場にいただろうか、まだ喧騒覚めやらぬところではあったが、ホテルに帰る事にした。途中チャリング・クロス駅に来た時だった、さっきの禿頭のオッチャンがトコトコやってくる。見ると、なんとラクダのトランクスと靴を履いただけの裸である。オッチャンは駅員に何か言うと、服と鞄を抱えて駅のホームへ逃げるように消えた。駅にいた人達はゲラゲラ笑っていた。

ロンドン・終

 

[ヘント]

「ヘント?何処?そんな名前聞いた事ない」と99.9%の日本人は間違いなく言うだろう。
私もベルギー人からお奨めの場所として一度名前を聞いただけで、実際に行くまでは気にも止めなかったからである。ドイツ出張中に名前を思い出したので、同じく駐在中の男性と行く事にした。
もっとも、最近はベルギーを回るパックツアーの順路に含まれるようになった。こんな小さな田舎町にも日本人観光客がどっと押し寄せる時代になったのかと思うと、感慨ひとしおである。
前置きはそれくらいにして、この町はアルファベットでGentと書き、オランダ語で「ヘント」、フランス語では「ガン」と読む、ベルギーの北部、ブリュッセルから北西へ約60Km離れた小さな町である。ドーバー海峡をフェリーでベルギーに渡るとオステンドという町に着くが、こことブリュッセルとの中間にあたる。

さて、ヘントへはアムステルダムからアントワープ経由のオステンド行き急行に乗っていくことにした。アントワープからはブリュッセルを通らず、支線をバイパスして、ヘントへ抜ける。アムステルダムからはずっと緑の平原が続き、ハーグ→ロッテルダム→アントワープと列車は進む。アントワープの手前でオランダ-ベルギー国境を越えるのだが、ベネルクス3国間はパスポートのチェックすらない。両替屋が駅弁売りのような格好で車内を通り過ぎただけだった。これが後のハプニングにつながるとは・・・。

ヘントへ着いたのが正午過ぎ。まず換金しようと駅の両替窓口へ行った。しかし、あれ?開いてない。そうか、昼休みだ。ということで同行の氏と1時まで待つ事にした。昼食にしたかったが現金(ベルギーフラン)がないので駅構内のベンチに座ったり、構内をうろうろしたりして時間を潰し、そして1時になったので再び窓口へ。ところがである。あれ?まだ開いてない??・・・え?・・・今日は土曜日だったんだ!
さあ、大変だ。どうしよう。同行の氏が駅の事務所で聞いたところ、町中のカフェで1個所だけ換金してくれるところがあるという。中心街は遠いから市電に乗れだと。ちょ、ちょっと!小銭すらないんだよ!
かくして、2人は5月の真昼の日差しをいっぱいに受け、電車道を腹を空かせながらトボトボ歩く事になった。

ヘント名物は古い城である。詳しい歴史は知らないが、ベルサイユみたいな外壁をきれいに仕上げたものではなく、表面が粗削りの黒い石を積んである。そして夜は奇麗にライトアップされ、思わずう〜んとうなりたくなる。日本で言えば姫路城のような感じか。ヘントの隣町ブルッヘ(Brugge、フランス語=ブルージュ)にも似たような城があり、ここも観光名所である。
ヘントは小さな町で、城以外にさしたる名所もない。半日もあれば十分だ。でも、観光案内所もホテルも親切で気分が良かった。さて、もうひとつエピソードを。
一晩だけだったが、夕食でとある魚料理のレストランに入った。ワインを1本頼んだのだが、何と「おつまみ」が出てきた。それもタニシを甘く煮たものでめちゃくちゃ旨かった。「おつまみ」が無料で出てくるなんて初めての経験だった。

ヘント・終

 

[ヌメア(ニューカレドニア)]

ニューカレドニアはご存知の方も多いだろう。あの森村桂の「天国にいちばん近い島」で一躍有名になった小さな島である。正式名は「フランス領ニューカレドニア」。フランスパンのような細長い島で、島全体がニッケル鉱でできていると言ってよい。
新婚旅行ではないが、子供が産まれる前、夫婦2人の旅であった。狭い土地で自由に回れる場所ではないのでパック旅行にした。何しろ「初めての」海外パック旅行だったのでちょっと戸惑うことがあった。

首都ヌメアは本当に小さな町で、一日か二日もあれば十分に回れる。町並みは常夏の島という感じの植物とフランス風の建物が入り交じった独特の雰囲気である。ノートルダム風の教会、小さな博物館、水族館、動植物園とそんなに多彩な名所があるわけではない。しかし、ニューカレドニアの魅力は青い空と「透明の」海である。
普通沖縄あたりでは「エメラルドグリーン」の海であるが、ここでは水平線のほうを見ると紺碧でも波打ち際は透明である。これには驚いた。普段大阪湾という「沼」を見ているだけに、強烈な印象だった。そして島は珊瑚礁で囲まれているので波は非常に静かだ。

さて、出発の前日、旅行会社から急に電話が入った。「ヌメアの空港がストで朝の出発ができない。夜の出発で明朝着になるが滞在を1日延長しますか?」というものだった。サラリーマンが勝手に一日空ける訳にもいかず、予定通り帰国ということにした。
初めてのパック旅行がどんなものか興味があったが、まず出発で驚いた。チェックインの時パスポートを持っていかれたまま出発前の説明と言うことで一室に集められた。ところが話はお土産の宣伝ばかりで延々1時間、やっと搭乗券とパスポートを渡されたのが出発30分前だった。見送りに来てくれた身内にはろくに挨拶もできず、あわててゲートに入った。飛行機は伊丹から成田で乗り換えてUTA(エールフランスの子会社)で一路ヌメアへ。
距離的にはオーストラリアへ行くのとあまり変わらない。緯度的にはケアンズと同じくらいか。ヌメアの気温は20℃程度で少し涼しかった。そりゃそうだ、7月末で南半球は冬なのだから。
滑走路が1本しかないローカル空港ヌメアへ到着。ロビーは殆どが日本人観光客である。現地ガイド(日本人)の案内でバスに乗って市内へ向かう。ここでも思わぬ話を聞く。市内到着までの30分間にオプションツアーの申込みをしろという。何でこんなにせっかちなんだろう。どうせ1週間いるのだからと嫁ハンと相談して無視しておいた。新婚旅行で初めての海外旅行という数組がそそくさと申込みをしていた。
昼食後再びバスで市内観光へ。途中水族館と博物館へ立ち寄った。だが困ったことに説明の看板は全てフランス語。レストランのメニューを読めるくらいのフランス語は知っていても、展示物の説明は学術用語も混じるのでさっぱりわからない。ふんふん、奇麗な熱帯魚だなあ、くらいで終わってしまった。後日、水槽の中に自生の珊瑚が生えている世界で唯一の水族館だということを知った。(海水を直接取り入れているため)
で、ホテル到着後は夜行便で疲れた体を休めるためにゴロ寝、翌日も夫婦揃って部屋でゴロゴロしていた。水着は持っていったが、海水もプールも冷たくてついに泳がずじまいだった。

印象的な場所をいくつか。
ヌメアの沖合の小島にアメデ灯台というのがある。エッフェル塔で有名なエッフェルの設計である。頂上からの眺めは雄大である。何と、珊瑚礁の向こうに真っ赤に錆びた難破船が見えた。それがまた自然の偉大さを感じさせた。島にはグラスボートもあって、熱帯魚の群れを楽しむことができた。
ヌメア郊外の丘の上にこじんまりした動植物園があって行ってみた。冬でも夾竹桃が咲いている。面白かったのは孔雀が放し飼いにされていて走り回っていた。ちょうど子供たちの一団と遭ったので記念撮影をした。後で写真を送ってやったが、礼状も何も来なかった。
この旅で一番印象的だったのが、ホテルのツアーデスクで申込んだ4WDで行く一日島内巡りだった。ミッシエルというフランス人ガイドの運転で、ジャングルとまではいかないが亜熱帯の林の中を走りまくった。オーストラリアに仕事で移り住んだという中年イギリス人夫婦と一緒になったが、例のロンドン訛りがないので、気楽に会話ができた。ニッケル鉱山跡や、古い集落、コーヒー園などを回って島の自然が楽しめたし、悪路で車が滑り落ちそうになるスリルもあった。

滞在中、食事は安くてボリューム満点で、夕食は2000円も出せば食い切れないくらいであった。わざわざ高級レストランに行かなくても十分に楽しめた。一度カフェで昼食にサンドイッチを頼んだが、フランス式サンドイッチを知っている私は1個で十分だというのに嫁ハンは2個も注文してしまい、結局1個余らせてカバンに入れて持ち帰ることになった。
※この旅での食事にまつわる話は別途「心得編」で書く

帰り道でのエピソードを2つ。
帰りの飛行機も夜行便だったが、空港までのバスの中で、カーテンの向こうに見えた夜空は満点の星で銀河が白い川のように輝いていた。さて、チェックインの時、チケットを出すとファーストクラスの搭乗券を渡された。それも最前列である。どうやら滞在を延長しなかった代りに特別サービスをしてくれたらしい。お陰でリクライニングシートでぐっすり眠ることができた。今迄は主翼のそばでエンジン音をガーガー聞いていたのと比べて格段の差であった。

ヌメア・終

 

[ニュールンベルグ]

ニュールンベルグへは仕事で何度も通った。
大半の日本人にとってはナチス戦犯を裁いた場所としての方が有名だろうが、日本で言えば京都のような古都である。古い町並みを保存しようという市民の努力で中世の城壁都市の面影を今も残している。ドイツの大都市は軒並み第二次大戦で空襲を受け、町は瓦礫に埋もれた。しかしニュールンベルグでは古い城壁の煉瓦を残らず集めて再建したのである。

ドイツ中世都市の典型的配置は、右の図のようになる。そして一都市と周辺の農村がひとつの国をなしているのが基本である。ドイツの場合、神聖ローマ帝国はこうした国家の連合体によって構成され、国王は帝国内の有力諸侯(選帝候)による選挙で選ばれていた。
ニュールンベルグは帝国内の有力国、フランケン公国の中心都市として繁栄を誇ったのである。

古都であるとともに、ベルリンとかハンブルグのような大都会と違って、ニュールンベルグには田舎の匂いが漂う。今もそうだが、チロルハットにモスグリーンのニッカに似たズボンを穿いたオジサンがのんびり散歩をしている。ホテルも田舎の旅篭的なゆったりした感じがある。小さなホテルでは未だにルームナンバー「00」と書かれた共同トイレ・バスがある。大体ドイツ南部はウェットで人なつこいと言われる。地元の人間に言わせると北部は「冷たい」そうである。仕事仲間でも家に招待するなんてことは滅多にないらしい。

さて、町の中を紹介しよう。興味のある人には壁沿いの道を散歩するのがいいだろう。但し、夜のフラウエン・マウアー通りは男性諸氏を誘惑する場所であるので注意のこと。
博物館でユニークなのが国立ゲルマン博物館と玩具博物館である。国立ゲルマン博物館で目を引いたのは古い楽器の陳列コーナーである。教科書に出てくる金管楽器の原型、フリューゲルホルンの実物が置いてあった。それと古いピアノやハープシコードなどの一種で名前は忘れたが陶器製の打楽器が面白かった。ちょうど大きさが違う茶碗を順に何枚も重ねて横に並べたものである。どんな音がするのか一度聞いてみたいものだ。玩具博物館はそれこそおもちゃのオンパレードで、大人でも楽しめる。ここでいちばんびっくりしたのが、昔金持ちの家で使われていた、ままごとセットである。とても精巧に作られていて、一軒の家がそっくりそのままミニチュアになっている。当然家具調度品も一式揃っていて、とても玩具として使うにはもったいない気がした。まさに手作りの芸術品である。

ニュールンベルグはドイツを旅する人にはぜひお勧めしたい。ロマンティック街道の始点ヴュルツブルグから特急列車に乗って1時間で行ける。

ニュールンベルグ・終

 

[アムステルダム]

アムステルダムは神戸と同じ港町だが、運河が非常に多い。むしろ大阪に近いだろうか。
ハンブルグもそうだが、夜の港町というのはネオンきらきら、何か妖しい雰囲気が漂うものである。町中にはそうした船員達が誘惑されそうな店があちこちにある。従ってあまり清潔な感じはしない。
運河の側にあるオランダ風の家には特徴がある。「ハウステンボス」を見た方ならご存知だろう。階が上へ行くほど天井の高さが低くなる事と、屋根には荷物を釣り下げるための梁が突き出ている事である。

列車でアムステルダム中央駅に着くと、一度外から駅舎を眺めてみよう。誰しもがあれ?と思うはずである。どこかで見たような煉瓦造りの駅舎が・・・そう、東京駅である。あの丸の内側の造りはここを真似た。オランダと日本の深い関係はここにもあった。
さて、アムステルダムで印象に残ったのは3つ、国立博物館、ゴッホ美術館、アンネの家である。
国立博物館といえばレンブラントの「夜警」があまりにも有名すぎるのだが、以外と知られていないのが浮世絵のコレクションである。膨大な量とともに、版画の作成方法が細かく説明してあり、道具類も取り揃っている。日本国内でもちょっとないのではないだろうか。江戸時代以降、浮世絵は二束三文で海外に売られ、国内では芸術作品として大切に扱われなかったのが原因だ。
次はゴッホ美術館。特にアルルで自殺するまでの自画像の変遷は、彼の心理が次第に歪んだものになっていくありさまを浮き彫りにしている。彼は浮世絵にも影響を受けて何本かの浮世絵を題材にした習作を作っている。
最後にアンネの家だが、女性ならずとも、あの小さな屋根裏部屋で抑圧された暮らしをしたアンネ・フランクと家族達の息苦しい生活を想像すると、涙が出る。それと同時に入り口にある隠し扉として使われた古びた書棚は当時のものそのままだけに、戦争とナチスドイツの行なった犯罪に対する無言の告発となっている。もちろん扉以外の建材や家具なども当時のまま保存されている。

アムステルダム・終

 

[ブリエンツ]

ブリエンツ(Brienz)は左の地図のベルン(Bern)とルツェルン(Lucerne)の中間あたり、ユングフラウへの入り口となるインターラーケン(Interlaken)から東へ約10kmの湖のほとりにある。

スイスは何度行っても飽きない。わずか九州ほどの面積の中に山あり、湖ありの多彩な風景が旅行者をあの「アルプスの少女ハイジ」の世界へ誘う。勿論国としても観光客を誘致するための多大な努力を払っているわけだが。

インターラーケンが多くの登山客を迎える交通の要所として賑わうのに対して、ブリエンツは鄙びた田舎町の風情を残す。だが、こんな小さな町でも日本人がチラホラ訪ねてくる。理由は有名な蒸気機関車を使った登山鉄道、ロートホルン鉄道があるせいである。鉄道マニアにはこたえられない存在である。残念ながら時間の関係で私は乗り損ねてしまった。
ブリエンツには特急列車でベルン経由インターラーケン・オストに入り、そこから狭軌の鉄道に乗り換えて15分なのだが、私はわざとブリエンツ湖の船の旅を楽しんだ。スイスの湖は殆ど鮮やかなコバルトブルーである。氷河が溶けた水なので非常に冷たい。景色のよさを満喫するには船旅をお勧めする。
さて、ブリエンツには登山鉄道と並んで有名なバレンベルグ野外博物館がある。博物館と言っても森林公園のような感じで、違うのは古いスイスの農家などを園内に展示していることである。さらにチーズ、干肉、パンの実演販売もやっている。ちなみにあの茶色い田舎パンはコクがあって旨い。あの味に慣れると日本の大手メーカーの作っている弾力性のないパンは食えなくなる。
また園内で非常に珍しいものを見た。炭焼きである。日本のような窯ではなく、薪を縦に円形ドームのように並べて土をかぶせ、中で蒸し焼きにする。向こうもバーベキューは盛んで、木炭の需要はあるらしい。

最後に、ブリエンツの駅はいかにも田舎らしく、ホームがない。ちょど市電のように平らな地面の真ん中にレールが埋め込まれた形になっている。列車が到着するとデッキの階段をよじ登らないといけない。重いスーツケースだと苦労する。私の場合はさらに年老いた母親を引っ張り上げねばならなかった。

ブリエンツ・終

 

[ゴルナーグラート]

ゴルナーグラート(Gornergrat)というのは町の名前ではない。有名なマッタ−ホルンの山麓ツェルマット(Zermatt)の町から電車で登った3135mの標高にある独峰の名前である。
ここへ上がるとマッターホルンの他、周辺の山々が360度見渡せる。すばらしい景観はさすがスイスならではという感じがする。
登るのは午前が良い。山の天気の常識で午後は雲が出てくる。私は友人とともに朝7時の電車に乗った。その日は天気も良く、雲一つないという幸運に恵まれた。その時に撮った360度のパノラマ連続写真は今もアルバムに残っている。残念ながら銀塩カメラなのでここにはお見せ出来ない。
帰りはマッターホルンを見ながら歩いて降りた。これまた絵葉書のような風景である。途中小さな池があり、ここの水面に映るマッターホルンは実際絵葉書にもなっている。

さて、ツェルマットからゴルナーグラートへ行く前の日、とんでもないハプニングがあった。電車でフィスプからツェルマットへ入る途中、夜の8時頃になって電車が動かなくなった。おまけに何の放送もない。待つこと2時間、「バスに乗り換えてくれ」と言う。川が氾濫したらしい。え、氾濫?変だなあ、と思いつつもバスから眺めると確かに途中で線路が水没しているのが見えた。
翌日土産物屋で聞いたら氷河が崩れて洪水になったとのこと。その年は暑い夏で氷河の先端が一気に崩れ、鉄砲水になったらしい。これもスイスらしい。

ゴルナーグラート・終

 

[デュッセルドルフ]

実は仕事で若い頃ここで1年間を過ごした。もっとも週の半分くらいはドイツを中心に出張で不在だったが。
人口は70万そこそこだが、何といっても日本企業の現地法人・出張所がひしめき、短期・長期あわせて常時日本人が2万人くらい住んでいる。だから昼休みの駅前通は日本人だらけになるのだ。日本人がここに集中することになったのは、戦後のルール工業地帯における商業の中心として栄えたからである。「マンネスマン」とか「テュッセン」などの大企業の本社ビルが建っている。
デュッセルドルフはだから観光地ではない。せいぜい詩人ハイネの生家があるとか、郊外にネアンデルタール人(土地の名前から来ている)の遺跡があるということくらいである。
私が印象を深くもっているのは、2月11日に行われる謝肉祭(カーニバル)である。理由は聞き漏らしたが、この日は女性が男性のネクタイを切り落とす。特に市庁舎の前では午前11時11分に壇上に立った市長めがけて女性陣が一斉に突進し、市長のネクタイを求めて争う。通りには仮装をした女性が酒の瓶を持ってうろつき、男性に酒を振る舞う。オフィスは一応出勤日だが、もちろん仕事にはならない。出勤したら真っ先にネクタイを切られ、あとは適当に酒を飲んで1日が終わる。なお、この日のためにデパートなどでは化繊製の安物のネクタイが大量に売られる。

デュッセルドルフ・終

 

[ハンブルグ]

懐かしさというか、長くいたせいもあってこれもドイツである。有名な都市だから一般的な話は省く。
ハンブルグは仕事がらみで何度も通った。それで一度はビートルズが演奏していたという酒場に行ってみたかったが、仕事が終わると飯を食ってそのままホテルで「バタンキュー」が多く、ついに行きそびれた。
ハンブルグでの私のお勧めは港巡りの遊覧船である。神戸と似た港町風情は懐かしく感じた。但し、エルベ川にある港なので若干狭く感じる。実際、大型船を岸壁からタグボートで引っ張ると反対の川岸すれすれにまで近寄る。
それから食い物は港のそばにある高層ビルの最上階、港の全景が楽しめる「ババリア・ブリック」の魚料理がいい。ハンブルグでは北海のうなぎが食えるが、やめたほうがいい。骨切りをせずにぶつ切り、スープにしたものとか単なるから揚げで、油がしつこいので日本人には合わない。そもそもドイツ料理は「茹でる」「揚げる」「焼く」くらいのパターンしかなく、荒っぽい味しかしない。特に茹で牛肉は肉汁で作ったソースをかけるとはいえ、パサパサである。
話変わって車のナンバープレートのことを書こう。ドイツのナンバーは都市の頭文字が基本になっている。ところがハンブルグの車は"HH"。それからブレーメンは"HB"、もひとつリューベックは"HL"である。理由はいずれもハンザ同盟に加わっていたからで、最初に"H"が付くようになった。

ハンブルグ・終

 

[釜山]

釜山には98年以降仕事でちょくちょく行くようになった。
ソウルに次ぐ第2の大都市、古くから朝鮮半島の海の玄関口として栄えた歴史を持つということは誰しもが知っているが、意外と狭くてごみごみしたところがあるということは行って見ないと判らない。
ソウルの通勤時間帯の大混雑もすごいが、釜山の渋滞も負けず劣らず、狭く曲がりくねった坂道をノロノロ走る車の列は遅々として進まない。中心街を抜けて高速に出るまでが非常に長く感じる。
町の広さは正確には知らないが、ざっと見た感じでは長崎より少し大きい程度だろうか。そのせせこましいところに何とピーク時は400万人が住んでいた。人口が少し分散し始めているらしいが、それでもまだ370万人が住んでいるという。とにかく山の斜面にもびっしりと家が並んでいるのである。
これだけ人口が密集しているのには理由がある。以前の具体的な人数は知らないが、そうでなくても賑やかな港町に人口が流れ込む事態になったのは朝鮮戦争のさ中のことである。北軍の破竹の進撃で、南軍は釜山近郊まで追い詰められた。その時の避難民が数十万人釜山に逃げ込んだのである。そして戦争が一段落した後も多くの人がそのまま住み着いた。以後は都市を中心とした爆発的人口増加によって400万人にも膨れ上がったのである。
ソウルが韓国経済の中心的存在なのに対して、釜山は種々雑多な産業が並存している中小企業の寄り合い所帯の感がある。だからどこの企業へ行っても財閥系のようなエリート的態度は見られない。ある大企業を訪問したときにお茶の一杯さえ出なかったことがあったのに比べると、えらい違いである。

この冬(2000〜2001年)の釜山で四十数年ぶりに積雪があった。もともと南部、東部ではほとんど積雪がない。そこに雪が積もったものだから、坂道の多いプサンの町は大パニックになったらしい。そのあたり、日本の気象の傾向と非常に似通っている。

2002年、釜山ではワールドカップの一会場になると同時にアジア大会が開催される。そのための競技場も建設が進んでいる。釜山市民の何人かに聞いたが、ワールドカップよりもアジア大会の方に注目がされているらしく、意外な感じを受けた。

ところで韓国の食堂に入るとさすがの大阪鶴橋でも見られないものが出てくる。それはシャーレのような平べったい小皿に入った野菜の煮付けや白菜キムチなどの「おかず」が5〜6種類必ず出てくることである。焼肉であろうと、ビビンバを頼もうと必ず添え物として出てくる。面白いのは日本の影響だろうか、時々ドレッシングのかかった野菜サラダとか小さなお好み焼きがその「おかず」に含まれている。
私は唐辛子が大の苦手だったが、最近やっと自然に口にできるようになってきた。しかし、なんと言っても最大の好物は「プルコギ」というすき焼きみたいな料理である。

釜山・終

 

[ケルン]

どうしてもドイツの町が思い出される。やはり私の若いときの経験がいつまでも記憶に残るようだ。
つまらぬ話だが、日本語のように「ケルン」と発音してもドイツでは絶対に通じない。特に「ケ」の音は困難を極める。「円唇」と言って「コ」を発音するように口をすぼめながら「ケ」と発音するとそれらしく聞こえる。

ケルンと言えば美術の教科書でおなじみ駅前の大聖堂である。切り立った尖塔は確かに遠くからでも良く見える。しかし堂の内部は薄暗くてお世辞にも綺麗とは言えない。パリのノートルダムやバチカンなどと比較して、ドイツの教会はおしなべて暗く、もうひとつ美しさに欠ける。その理由のひとつとしては第二次大戦の爆撃で徹底的に破壊されたのを再建したものが多いことがあるだろう。
私はケルンの大聖堂よりも隣にある「ゲルマン−ローマン博物館」の方が興味深かった。ローマ時代の遺跡独特のあのモザイクタイルが遠く離れたドイツにまで及んだことがわかる。実際ローマ軍はケルンからさらに数百キロ北の「トイトブルグの森」(現在のオスナブリュックの南まで進撃した。
ケルンの名所といえばこれくらいで、あとは工業都市という感じが強い町である。
それよりもケルンには別の名物がある。その名も高き「オーデコロン」である。「オーデコロン」というのはフランス語で、「ケルンの水」を意味する。余計なことだが、「オードトワレ」は「トイレの水」のことである。
このオーデコロンで最も有名なのが「4711」という銘柄である。エメラルドグリーンのラベルが今も印象に残っている。ところがこの有名なブランドが他のヨーロッパの空港の免税店では売っていない。最近の香水のように匂いもきつくなく、日本人向けのような気がするのだが、いまどきの売れ筋ではないのか、免税店ではとんと見ない。

ケルン・終

 

[ヨーク]

イギリス出張で週末の暇つぶしにヨークへ行ってみた。イギリス人も推薦の場所である。
イギリス中部の観光都市として賑わいのある町、市としても力を入れているらしく、案内地図や行先表示も充実している。そして売り物は中世の城壁である。ドイツのニュールンベルグに似た風景だが、ヨークのものは戦災から復興したものではなく、古いものがそのまま朽ちたという感じである。
中心部には城があるが、塔と城博物館になっている2階建ての館だけが残っているだけで、砦のような感じはない。城とともに有名なのはMinsterと呼ばれる教会。ロンドンのものより一回り小さいが、負けず劣らずどっしりした風格は変わらない。
城壁内部の道路は狭く、商店街は歩行者天国になっている。私もアイスクリームを頬張りながら(イイ年をしたおっさんがと思われる向きもあるが、この年になって私はそうするのが好きになった)露天商や大道芸人を眺めてぶらぶらしていた。その時に改めて気付いたが、他国に比べて看板や案内がすべて英語なので安心感がまったく違うのである。当たり前と言えば当たり前なのだが。
さて、ヨークは日本でも最近のニュースで紹介されたことがあることをご存知だろうか。理由はJRから0系新幹線が鉄道博物館に寄贈されたからである。博物館はヨークの駅裏にあった機関庫を改造して作られており、日本のものより敷地は広い。ただ、展示物は多いが、雑然と並べられていて案内もあまり親切ではない。だが一見の余地はある。ロンドンからは特急で2時間と少し、鉄道ファンなら、かの有名なキングズクロス駅から列車が出ているのでお奨めしたい街である。

ヨーク・終

 

[ロアール川]

ドイツ滞在中の週末に、ロアール川周辺の城を巡るバスツアーに出かけた。
パリの南、オルレアンからナントにかけてのロアール川周辺には沢山の古城が並び、観光客が押し寄せるところとして有名である。
通常、日本人団体客は早朝にパリを出発する一日コースで慌しく帰っていく。だが私は時間的余裕もあるので、1泊2日のものに乗った。乗客は国際色豊かな人種混成部隊である。
バスは西の端にあるアゼ・ル・リドを皮切りに、上流に向かって走り、あちこちの城を回っていく。それにしてもガイドの英語は猛烈な訛で聞きづらい。おまけにこちらは中世の歴史には極めて疎く、歴代王朝の話をされても理解できない。これでは面白くないので途中で家系図を買った。
1日目はトゥールに宿泊。
2日目、訪れる城の規模が次第に大きくなる。時代とともにルイ王朝が繁栄していく姿を見ているようである。最後はシャンボール。これを最後に王家はベルサイユで最高潮に達するのである。ロアールの城々を見てからベルサイユを訪れると、歴史の流れを理解する上ではいいだろう。

ロアール川に限らず、ヨーロッパの大河は川幅一杯の上に流れが速い。日本のようにしぶきを上げて流れる景色はアルプスあたりでしか見られない。雪解けの洪水などが発生すると、上がった水位が容易には下がらない。浸水が一月近く続くこともある。

それにしてもフランスという国は独特のものがある。まず、パリと周辺を含むイル・ド・フランスだけで1千万人の人口が集中する。フランス全体で6千万人だから、日本の首都圏にも負けない。そしてパリ以外の残る土地は豊かな農地である。食料自給率は120%を超える。穀物などは200%。緑の豊かさはバスに乗っていても非常に良くわかる。
もちろん工業製品も悪くない。「コンコルド」とかフランスの新幹線TGVとか、高度な技術もある。残念ながら本文を書いた時点では、TGVにはまだ乗っていない。

ロアール川・終

 

[パリ]

考えたら何度も行っているパリのことを書いていなかった。
私は意外と都会好きである。大都市に生まれたせいかも知れない。そういう意味でパリのせかせかした感じが肌に合う。それも地下鉄に乗ってあちこち動き回るのが楽しい。但し最近のメトロは治安が悪く、夜一人で乗るのは不気味な感じがする。
パリには何度も行ったので、大抵の観光名所、ルーブル美術館やノートルダム寺院、などはほとんど訪問した。それらの紹介は多くの本やネットでされているので、ここでは省略する。
そんな中、あまり人が寄り付かない場所がある。それは「カタコンベ」である。ローマ郊外のカタコンベは古代ローマ時代の古いものであるが、パリのものは18世紀まで実際に使われていたものである。従って遺骨は整然と、ぎっちり並べられている。墓場なので自信のない方はやめたほうがいい。メトロのDenfert-Rochereau駅が最寄。
食事の話だが、私が何度か通ったのがオペラ座の少し南にあるLe Grand Cafe。観光客向けであるが、味は日本人にも口に合うと思う。魚介類が多い。注文するとき、日本語のメニューを出してくるが、書いてある種類は少なく、フランス語のものを頼むといいだろう。もちろんメニューが読める程度のフランス語の知識は必要だが。
そう言えばオペラ座界隈はよく歩いた。仕事の関係で近所に事務所があったからで、買い物や食事に良く歩いた。最長のコースは、サンラザール駅から東へ歩いてプランタン百貨店からオペラ座、そしてパレ・ロワイヤルから今度は有名ブティックが並ぶサントノーレ通りを西へ向かい、後はチュイルリー公園を通ってコンコルド広場からシャンゼリゼ通り、そしてゴールは凱旋門である。これだけでも強行軍だが、足に自信がある人はパレロワイヤルでルーブル美術館に立ち寄るも可。しかし一日で回ろうとすると美術館での長居は無理である。
ところでパリの土産は?と聞かれたら、私は躊躇なく「キャマンベールチーズ」と答える。別にパリでなくても良いのだが、高価なブランド品を見せびらかすようなキャラでない私は、パリに立ち寄ると必ずキャマンベールを買う。スーパーで安く買えるし、何と言ってもあの味は忘れられない。日本製よりもずっと臭いは強烈であるが、本場の味は他のヨーロッパ製と比べても深みがある。食べ頃は表面の白いカビに少し茶色の斑点が出だしたくらい。それ以上冷蔵庫に寝かしておいても、乾燥が進んで皮の部分が堅くなり、味も落ちる。

パリ・終

 

−続く−