広島 国内編

国内編:


生月島
利尻島
高山
札幌
舞鶴
広島
函館
大牟田


[生月島]

生月島ってどこ?という人は少なくないと思う。
知っている人は物凄い旅好きか、隠れキリシタンのことに詳しい人だろう。

まだ独り者の頃、思い付きで佐世保から長崎を回った時に生月島へ立ち寄った。寝台特急「あかつき」で佐世保に行き、そこから鉄道には乗らずに九十九島めぐりの船で平戸へ着く。さらに平戸島内のバスで西海岸に回り、そこからフェリーで生月島に渡るのだ。
そんなに有名な観光地でもないが、島に隠れキリシタンを偲ばせるものがあるらしいとのことで、寄ってみる気になった。
島に着いたのが午後3時頃だったろうか、飛び込みで旅館に入って荷物を置き、ぶらっと山手の方へ散歩に出た。なるほど何個所かに十字架の並ぶ墓地なんかがある。夕日を眺めた後旅館へ戻った。
さて、私がなんでこの島の思い出が深いかというと、散歩している間中、島の人達の視線がものすごく強かったように見えたからである。まあ、明らかに余所者、それも若い男が仕事もないのに一人でぶらぶらしている姿はよっぽど目立ったのだろう。すれ違う人のすべてがこちらをじーっと見ている。それも例外なしに。こりゃあマイッタ。
不思議な事に翌日のバスから再び船に乗るまでの間ではそんな感じは全くなかった。そしてそんな経験は後にも先にもなかった。未だ理由は定かでない。

生月島・終

 

[利尻島]

島が続いたのは偶然である。利尻島も意外と記憶に残っている。

利尻まではアプローチが大変である。神戸の家からでは飛行機で札幌に行き、そこから陸路稚内へ、次いでフェリーで約2時間かかる。札幌から飛行機で島へ行く方法もあるが、便数が少なくかつ当時は国鉄のほうが断然安かった。
私が行った時は旭川で1泊し、翌朝急行で4時間かかって稚内に着いた。北海道はどこでもそうだが「本線」と名が付いていてもローカル色が非常に強い。名寄を過ぎるともうヨーロッパ風の原野が続くようになる。
それと北海道ではJTBの時刻表などには名前の載らない駅が所々にある。北海道専門の時刻表でないと出ていないそうだ。それでも駅の間の距離は非常に長く、15分くらいカタンコトン列車が走り続けたりする。

列車の旅で疲れたのか船の中ではずっと寝ていた。稚内から電話で予約した民宿に泊った。
翌日は興味半分で利尻富士へ登ろうという気になった。だがそれはあまりにも無謀なことだった。朝早く民宿でおにぎりを貰って山に入りかけた。しかし靴が革靴ときたもんだから5分もしないうちに底がすべって歩けない。危険を感じてすぐに山を下りた。
民宿へ戻って自転車を借りる事にした。島を1周してもたかが数時間、ゆっくりペダルを踏みながら周遊道路を回る。夏で天気も良かったからスイスイいけた。途中漁港で休憩した。岸壁に漁船が多数繋がれている。ぼんやり眺めていたら漁師が一人親切にもこれらがイカ釣り船だと教えてくれた。そしてイカ用の釣針を見せてくれた。黄色や赤の細長い胴体の先に爪がついている。イカは電球の光とこの色に群がってくるらしい。TVでやっていたが、あの糸を巻く菱形のドラムは意味があって、菱の角で針がぴょんと跳ねる時にイカがうまく針からはずれるのだ。

午後の船に乗り、美しい島の姿が少しづつ小さくなるのを惜しみながら島を後にした。

利尻島・終

 

[高山]

飛騨の高山といえば、知らない人はないだろう。

小さな町とは言え、なかなか多彩である。高山祭り、朝市、古い町並み、陣屋など、観光客の目を引くようなものが詰め合わせになっている。観光化しすぎという声もあるようだが、無理矢理新しいモニュメントとかテーマパークを作るよりも、現存するものでいくほうが暖かみを感じる。
小京都と言われるだけあって、微妙なところは違うものの、何となく風情を感じさせる。私は京都生まれなので細かい違いが分かるが、むしろ似ているところに親近感を感じる。
高山での私の好みは高山陣屋である。中の建物は何となく京都の二条城を思い出させる。江戸時代の造りだからだろうか。TV時代劇などでは照明で明るくしてあるが、実際の建物の中は実に暗い。本当にこんなところに住んでいたのだろうかと思うくらいである。
ところで、高山陣屋で丁度団体客と一緒になった。案内していたのは初老の男性で、はきはきした声で説明していた。その中で面白い事を聞いた。江戸の大岡越前守から代官へ宛てた手紙が残っているとの話で、内容は「貢ぎ物は受け取った、ありがとう」とのことだった。時代劇のヒーローも実は賄賂を受け取る普通の役人だったのである。

高山・終

 

[札幌]

こんな大都会を・・・と言われるかも知れない。しかし私には学生時代に行った時のイメージがどうしても残っているので今の札幌の都会化した風景で物を言うのわけにはいかないのである。

札幌でいちばん下らないと思ったのが札幌大学のポプラ並木である。あれほど絵葉書と実物の落差が大きいモニュメントはないだろう。どの程度の落差かは個人差があると思うので細かくは書かない。
札幌に限らず北海道には大陸的風景が漂う。藻岩山から見た市内、手稲のゲレンデから見た石狩平野の眺望にはそんな印象を強く感じる。また、冬と夏の日照時間の差や、夏の夕陽の輝きは昔滞在した事のあるドイツのイメージと重なる事が多い。確かに緯度はミュンヘンと同じくらいである。例の有名なビール会社は「札幌−ミュンヘン−ミルウォーキー」をキャッチフレーズにしていた。

今も思い出に残る場所は二条市場である。
最近はかなり観光化したという話だが、町の市場独特の呼び声と、ごみごみした店先の風景は昔と変わらないと思う。地元で食べた夕張メロンがあまりにも旨かったので重いのも気にせず買って帰ったものだ。まだ本州では買えなかった時代の話である。
東京で流行ったものが遅れて札幌にもやってくるので、「リトル・トーキョー」という陰口もあるが、東京や大阪のような超過密の都市とは違って今も市電が走るのどかな風景、瓦屋根のない家並みは、北の大地らしい味わいを見せてくれる。

札幌・終

 

[舞鶴]

舞鶴にはその昔数年間住んでいた。京都府北部の港町で戦前は軍港で栄えた。町の名前は知らなくても「岸壁の母」と言えば親しみがあるかもしれぬ。特に戦前生まれの人達にとってはあの敗戦と引揚げの苦い思い出が蘇ってくるだろう。最後まで引揚船の受入港として残ったことが全国にその名を知られる所以となった。

舞鶴湾は「人」の字のような二股になった入り江で、西と東に分かれている。歴史的にも西舞鶴と東舞鶴では性格が全く異なる。西は旧城下町で、近代以降は商業港としての歴史を持つ。今も小樽からのフェリー乗り場やロシアからの木材輸入港として使われている。東は明治以降軍港として人工的に作られた町で、戦後は海上自衛隊の基地として使われ、また旧海軍廠は日立造船の工場として生まれ変わった。
特に東舞鶴の市街地は埋め立てで作られたので道路がきちんと碁盤目になっている。それも道路の名前がユニークで東西は一条、二条・・・、南北はなんと明治時代の軍艦の名前、「敷島」「三笠」「富士」・・・などとなっている。

私が居た頃は観光名所らしきものは特になかった。ひなびた寺院や城跡がある程度で、あとは夏に海水浴場が開くだけであった。今は引揚記念館や、海軍の倉庫を利用したレンガ博物館などができている。東と西の間にある五老岳という山の上には当時ボロボロのベンチしかなかったのが、今は展望台が作られている。

もう数十年行ってないので今はどうか判らないが、昔の薄暗いイメージは残っていないのだろうか。とにかく日本海側独特の雨の多い地域だったので、傘と長靴は必需品だった。「弁当忘れても傘忘れるな」というのがキャッチフレーズになっていた。
冬の日本海側の降雪は独特のものがある。真っ青な晴れ間と真っ黒い雲に伴う激しい雪とが交互に訪れるのだ。後年にアメダスの画像で「すじ状の雲」を見たのだが、それでこの現象が理解できた。北陸ではもっとすごいのだろうが、舞鶴でも平地で一夜に1mの積雪というのがあった。

戦前の繁栄はいざ知らず、戦後の舞鶴は平和な田舎の小都市としての歴史が続いている。万事せかせかした大都市と違って、おっとりとした感じの町の人達は今もたくましく生きているのだろう。一杯のコーヒーで何時間も粘った喫茶店はもう世代が替っているだろうか。意外と時間はゆっくりと流れているかもしれない。

舞鶴・終

 

[広島]

広島へは学生時代に一度行ったきり、その後は九州への単なる通過点でしかない。
広島は今も昔も変わらぬ地方の中核都市として栄えてきた町である。しかし1945年以降、広島は世界に対する重要な役割を担うこととなった。言うまでもなく世界で初めて原爆が投下されたからである。

私が行ったのはちょうどゴールデンウィーク、大阪から夜行急行「安芸」のすし詰めの自由席に乗った。もちろん山陽新幹線が出来る前のことである。貧乏学生には特急券や指定券は無縁だった。
広島ではやはり原爆資料館だけが記憶に残っている。それだけインパクトが強いということである。私自身も資料館の訪問が主な目的であった。
原爆ドームの印象はもうひとつ、なぜかというと建物の側に近寄れないからである。ベルリンのヴィルヘルム皇帝記念教会の壁にある弾痕の方が生々しさが伝わって来る。
さて、原爆資料館の中はやはり本や写真で見るよりもずっとその恐怖が伝わってくる。閃光の瞬間を想像することは不可能だが、放射線と爆風がいかに強かったということはその遺物から読み取れる。特にガラスと骨が溶け合ったものは灼熱の地獄だったことを想像するにあまりある。とても阪神大震災の比ではない。また原爆投下直後の死者もさることながら、今も後遺症に苦しむ人、そして被爆二世と、長期の被害を生み出した原因が何であったかを知るにふさわしい場所、それが原爆資料館である。
以前アメリカ大リーグの野球選手が資料館を訪れ、帰りは報道陣の質問にも何一つ答えずうつむいたままバスに乗り込んだ話は有名である。私も含めてそれくらいの衝撃を与える場所であった。

広島からの帰り道、予定としては倉敷も立ち寄る予定であったが、電車の中で寝過ごして、パスすることになった。

広島・終

 

[函館]

学生最後の年の夏に北海道へ渡った。まだ青函連絡船が存在する時代、北海道の玄関口としての函館は賑やかだった。
特急「白鳥」が地震のために酒田で2時間足止めを食らい、往きの船は深夜。混雑する桟橋で重い荷物を下げて往生していたオバチャンを手伝ったのだが、いたく感謝されて、後から万年筆を送ってきた。
だが函館の印象はむしろ帰りのほうだった。やはり帰りも「白鳥」で、というか当時は関西から陸路で北海道に行くには他に寝台急行の「日本海」しかなかったのだが、夜遅くに船が出るまでの時間待ちに観光バスに乗った。目的地はもちろん函館山である。
山頂に立って眼下を見下ろしたとき、思わず息を飲んだ。あまりの美しさにしばらく声が出なかった。神戸の夜景もそこそこだが、函館のは海岸線のカーブがなんとも言えない自然美を表わしているのである。
機会があればもう一度見たいという思いは今でもある。

函館・終

 

[大牟田]

仕事で大牟田に行ったことがある。博多から特急電車で1時間弱。
「炭鉱節」で有名な三井三池炭鉱があったところであるが、今は日本から炭鉱が消えて久しい。子供の頃の記憶としては、60年安保をきっかけとした大争議、そして1963年11月9日、三川鉱でのガス爆発事故で458名もの犠牲者が出たことが思い出される。同じ日、国鉄の鶴見事故が起こっている。
大牟田の駅を降りたが、駅前はもはや炭鉱全盛時代の賑やかさはなく、どこにでもあるような地方都市としての顔しか見えない。
私は、炭鉱時代に培った技術で今も生き残っている、ある会社を訪れた。工場の建屋は昔のままの広い敷地とともにあるが、仕事量はそんなにあるわけもなく、何となくガランとした感じである。そんな工場は他にもまだいくらかあるようだ。
駅から工場へ向かう途中、三川坑の跡地を見せて貰った。海岸近くは殆ど、だだっ広い空き地になっていしまっている。1ヶ所に高い煙突が見えるが、九州電力の火力発電所で、原料の石炭は輸入である。何たる皮肉だろう。
炭鉱は閉山したが、埋蔵量はまだ多く、環境汚染問題を克服すれば採掘は可能という。だが、日本の炭鉱を潰した主な原因は政府の石油・原子力優先政策のためである。また、輸入石炭よりも高い採掘コストをどうするか、これもまた課題として残る。

函館・終

 

−続く−