シベリア横断9300キロ <5.エピローグ>

シェレメチェボ空港ターミナル1
 帰国した翌日、私は休息日。息子は始業式ということだったが、翌朝食べたものを戻してしまい、敢え無くダウン。口にはしなかったがやはりかなり疲れていたのだろう。また、自覚はなくてもそういうこともある。
 その日は荷物の整理、持ち帰った画像の取り込み、それに一緒に持っていった銀塩カメラをDPEに出すなど、ドタバタしていた。さらにはこの旅行記の準備のためのメモを作った。

 今回の旅はシベリア鉄道を主として計画した。5年前は家族一緒にスイスへ旅行したのだが、こちらは殆ど自らで計画、切符やホテルの手配も自分で仕切った。しかし今回はビザの関係や言葉の不自由さから旅行代理店にすべてを頼むしか手はなかった。
 だから個人で手配するより金はかかったし、おまけに予想以上の費用になった。原因は複雑なルートの航空券になったことと、見本市が開催されていたベルリンのホテル代が高くついたことによる。
 だがこれも止むを得まい。西欧なら住所と電話番号さえわかればそこへ這ってでもたどりつける自信はあるが、ロシアではまだまだそういった自由に移動できる環境にはない。それがロシアを旅した実感である。
 もし次にロシアへ行く時は、ガイドなしでは無理だろう。冒険をする気もないし、できるような年でもない。モスクワの夜に万が一暴漢に襲われた場合のリスクを負えるほどの体力もこれまたない。

 ロシアを見て感じたのは、普通の庶民が普通の生活をしている限り非常に暮らしやすいように思ったことである。例え海外との通貨レートで換算して安い給料でも、物価が安いから食うに困らない。だがもうひとつ上の暮らしをしたい、あるいは生活環境を向上させたいと住民運動でも起こそうものなら、途端に羽交い絞めを食らう。特にソ連時代は常に監視され、ものが言えない状況だっただろう。もちろん今はずっと自由になったし、旅行も気軽にできるようになった。だが80年間培われた官僚主義は「住民サービス」という概念を死滅させ、ましてや異邦人に対する手厚いもてなしは期待すべくもない。庶民同士の助け合いは、「タワリーシチ」と呼ばれる、不足した電車賃の小銭を周囲の人間が補ってやる風習などに表現されていたが、それ以上のものは見つけにくい。
 だから「アエロフロートは不親切だ」という声はあちこちで聞く。そりゃそうだ。彼らはそういう教育しかされていないし、そういう環境でしか育っていないのである。これが改善されるのは数十年かかるだろう。二度とロシアには行きたくないとは思わない。しかし、もし再び訪れることがあるなら、そういう不自由さは覚悟しないといけないだろう。

 2回目のベルリンは感慨深かった。ベルリンの壁が消えたことは別としても、やはり20年の歳月は長い。鉄道車両が新しくなっているなど、微妙に時代の変化が反映されている。ただ、携帯電話はほとんど見なかった。ロンドンなどに比べて持っている人が極端に少ない。モスクワ並みである。何故かはわからないが。
 ベルリンの壁が本当に消えたことは、私には非常に感動的だった。20年前、ポツダム広場の展望塔から見た殺伐とした灰色の風景は忘れられない。しかし壁のない現在の風景は、私にその記憶を忘れよと命令しているように思えた。またブランデブルグ門をくぐって東から西へ歩いたとき、命を賭けて壁を乗り越えた人、あるいは乗り越えられずに露と消えた人の人生の意味は何だったのだろうと考えざるを得なかった。
 歴史とは皮肉なものだ。ドイツは28年間も壁によって歴史の「回り道」をさせられた。それも自らの過ちが原因ではなく、米ソによる対立の副産物からである。ドイツ人がこのことをどう思っているかは知らない。私にもその「回り道」の価値がどういうものなのか、ドイツ人以上にわからない。だが、壁は事実として消え、そして少なくとも壁という足枷はなくなった。
 いかに経済的負担があろうとも、統一ドイツ、それはドイツ人にとっての当然の念願だったし、また実現された。幸いにして壁崩壊の恩恵は我々外国人にも与えられ、東側を自由に歩くことができるようになった。だからそれは喜んでよい。私もそれを享受することができたのだ。
 だが一方で、28年間の不幸な歴史は忘れてはいけない。偶然にして、私は平和でないベルリンと平和なベルリンの差を体験することができた。それはまさに貴重な出来事である。

 さて、例の食堂車の事件であるが、帰国して旅行代理店の担当者に聞いてみた。彼はツアーコンダクターとして中国などにも行ったことがあるという。その時、今回とはまったくパターンが異なるが、客の金をくすねることもあったという。だから私が経緯を話したときに、レシートの手書き追記の場面を聞いて、瞬間に理解した。やはり私の予想は間違っていなかったようだ。
 彼は続いて「自由化されたロシア、中国では、混乱に乗じて悪事を働く例が時として見られる」と語った。不幸にして私がそういうケースに遭遇したもののようだ。
 日本人観光客がよく狙われる、スリや置き引きに対する警戒感や防犯対策は私も怠らないようにしていたが、今回の事件はそれとはまた異なった、非常に特異な犯罪である。暴力ではなく、いわゆる知能犯であると言えそうだ。

 今度の旅はシベリア鉄道完走という非常に珍しい、なかなか経験できないことを計画、実行した。多くのツアーはウラジオストックからイルクーツク、バイカル湖観光で終っている。その上にベルリンという私だけの非常に個人的な思い入れを加えたから、なおさら希少価値は増す。もっともこんな旅を考える馬鹿は他にいないだろう。
 こんな風変わりな旅行に息子は付いてきた。切符の手配を確定する前、息子にここから先ドタキャンはできないよと念を押したが、旅行中も不満は洩らさず、我慢してオヤジのケッタイな趣味に付き合ってくれた。旅行中も自分なりの時間の潰し方をしていたし、元来がおしゃべりな性格で、列車の隣室のSさんと良く話をしていた。
 旅の感想はあまり喋らないが、「二度と行きたくない」と言わないので、納得できなかったというわけではなさそうだ。文句を言うとどやしつける、という暴力的オヤジではないので、不満がくすぶっているということはないだろうと信じている。ただ、中1であることから、外国に対しての知識も持ち合わせがあるわけでもなく、オヤジ任せにするしかなかった側面もあっただろう。そういう信頼を与えてくれたことに感謝する。

 貴重な体験を書き残し、ここに筆を置く。

−完−

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