シベリア横断9300キロ <4.ベルリン編> −10日目−

ベルリンで泊まったホテル
 20年ぶりのベルリンの朝、やはり夜明けとともに起きる。息子もすぐに起きてきた。
朝食は6時半から。いつもながら欧州は早起きだ。昨日教えて貰ったフロントの裏側の食堂へ、一番客として入る。ちょうど見本市の開催中で、ホテルはどこも満員らしく、我々の後から客が次々に入る。
 メニューはもちろんビュッフェスタイル。ただ、ここは野菜がほとんどない。ドイツは野菜のかなりの部分を輸入に頼るのだが、トマトくらいしかないのはやはり淋しい。
 朝食を終えて食堂を出るとき、不覚にもガラスドアに思いっきり顔をぶつけた。そう言えば、やはり以前カラオケの入口でガラス戸にしこたま頭をぶつけ、たんこぶを作ったことを思い出した。しかし今回は音だけで、何事もなかったが、ウェイトレスはびっくりしていた。

 9時半、予約していた市内観光バスの迎えの車が来る。クアフュールステンダム(Kurfürstendamm)、通称「クーダム」と呼ばれる繁華街のバス乗り場に向かう。バスは予定通り10時に出発した。
 最初は北西へ、オリンピックスタジアムの周りを巡る。次は見本市会場。そして車は回れ右をするように今度は東へ向かう。しばらくするとティアーガルテン(Tiergarten)の南側にある大使館・領事館の並ぶ一角を通り過ぎる。このあたりまでは昔と同じコースだ。そして・・・
 広場の真ん中を壁が横切っていたポツダム広場(Potzdamer Platz)に来て、そのあまりの変貌に驚いた。あの暗い灰色の風景はなく、広場を含めた周囲は殆ど真新しいビルと入れ替わっていたのである。市電の線路ももはやなかった。そのあたりの風景は明日の分で紹介する。
 それにしても壁はまったく見えない。ドイツ人にとってそれは当然とも言える。あの忌まわしい30年近い分裂の歴史は、二度と見たくないのだ。そんなことを考えながらもバスは狭い通りを抜けて行く。ベルリンは古都だけに色々な博物館や美術館などがひしめく。バスはその間を縫うように走るのだ。

チェックポイント・チャーリーの検問所
 やがてバスは一つの建物の前で休憩する。
 東西ベルリンを繋いでいた場所のひとつ、チェックポイント・チャーリーである。ここは米軍が管理していた。その検問所がそのまま保存されていた。今は車が多数行き交う道路なので、この掘建て小屋はいかにも邪魔で奇異な感じを与える。しかし、壁があった当時は常に緊張感が漂っていた。東西冷戦の最前線だったからである。
 写真の手前側には検問所の記念博物館が出来ていた。しかし休憩時間が短いので中には入らず、ずっと街の風景を眺めていた。

 検問所の写真を撮った直後にバスガイドが来たのでちょっと立ち話をした。「20年前ここから東に入ったことを思い出したが、あのころの面影はもうないね」と言ったら彼女はこう答えた。「確かにそうでしょうね。でもあの頃の西ドイツ人は東へ行くことを禁止されていたのですよ」と。確かにそうだった。今は南北朝鮮の家族が、機会が少ないとはいえ会う事も可能になった。しかしドイツは当時、東から西へ命を賭けて逃亡する人はいたものの、公式には一切の接触は禁止されていたのである。

 休憩を終えてバスは旧東ベルリンの中心街を走る。歴史的な建物などは昔のままだった。それと東にあったテレビ塔はそのままだった。しかし旧東独政府の建物を見た時、あっと思った。政府組織の崩壊とともに不要になったのだが、東西統一後は手入れもせずに放置されていたのである。風に晒されたままの鉄骨は赤く錆び、20年前はちょっとしたシャレた感じのしたミラーガラスはくすんで、いかにも朽ち果てたという印象になっていた。建物の周囲や玄関には雑草が生え、もはや見る影もない。ドイツ人は記念として残すような価値もないものと見なしているのだろうか。勿論建物を壊すには金もかかるから、ここまで手が回らないということかも知れない。

ブランデンブルグ門
2006年ワールドカップのモニュメント
 古い町並みの旧ベルリン市街を回ったバスは、やがてウンター・デン・リンデン(Unter den Linden)で長めの休憩に入る。ここは文字通り菩提樹の並木道で、古き良き時代の面影が残っている。同じく古い町並みを誇るパリとはまた違った、明るい感じがした。
 ウンター・デン・リンデンについては思い出す事がある。明治時代、ベルリンの駐在武官であった森鴎外はここに住み、「舞姫」という淡い恋物語を書いた。この小説が実は私の中学校の教科書に載っていたのである。

 ウンター・デン・リンデンの西の突き当りにはブランデンブルグ門(Brandenburger Tor)がある。写真は東から西に向かって撮影したもの。門の西側はティアーガルテンであるが、昔は門との間を「壁」が遮っていた。壁があった時代は門にすら近寄れなかったのである。
 門の東側、ちょうど写真を撮った場所の背中側のパリ広場(Pariser Platz)には2006年ワールドカップのモニュメントが建設されていた。そう言えばオリンピックスタジアムも観客席の増設工事を行なっており、これから大会準備に忙しくなるのだろう。

 休憩を終えて、再びバスは狭い道路を次々に抜けていく。やがて街の中心を流れるシュプレー川(Spree)を渡り、旧国会議事堂(Reichstag)や真新しい首相官邸(Bundeskanzleramt)が並ぶ地区を通り過ぎる。このあたりの国政の中心街は、霞ヶ関のように官庁ビルがひしめき合うような感じではない。というか統一から間もないので、ボンから首都機能を移転させるのにかなり時間と金がかかるのであろう。バスガイドはいみじくも、「新しい建物を建てたり、古いものを改装する計画はある。しかし金がない」とぼやいていた。
 それは公共施設だけでなく、壁があった地域にも言える。壁の周辺は長期にわたって建物としての機能を停止させられ、無人のまま風雨にさらされた。一部の建物は壁の代わりにもなった。だから壁を取り壊して再建したり、使えるとしても内部をリニューアルしないと使えなかったりしている。その光景はちょうど震災後の阪神地域と似ている感じだった。
 確かにドイツは貧乏国だった旧東独を救済するための資金を必要としている。当然それは旧西独の負担となって肩にかかる。だからといってその負担に反対する運動が高まっているという話は聞いたことがない。そのあたりはドイツ民族としての一体感が強いのだろうと私は想像している。旧ユーゴのように民族間の対立が煽られるようなことはなさそうだ。

 ティアーガルテンの中を抜けたバスは、やがて終点へ到着した。午後1時頃である。
 息子は疲れた顔をしている。そもそも案内は英語とドイツ語のみで、おまけに強い興味があってベルリンに来たわけではない。私もガイドの強烈なドイツ訛の英語にうんざりしていた。とにかく早口で、かつ両国語を続けて喋るので、時折聞き分けできなくなった。

ヴィルヘルム皇帝記念教会
 午後は晴れて陽射しも強くなり、汗が出た。
 20年前にも見た、クーダムのツォー駅にいちばん近いところにあるヴィルヘルム皇帝記念教会(Kaiser Wilhelm Gedächtniskirche)を訪れる。
 ここは戦火で破壊されたドームがそのまま保存されているところである。前回は夜だったので内部にはは入れなかったが、今回はじっくり見ることにする。外壁はいたるところに弾痕がある。内部も床のモザイクがひび割れているが、これは修復されている。教会の今昔が写真と模型で展示されていて、瓦礫の中で行なわれているミサの写真は言葉に尽くしがたいものがある。イラクとかパレスチナでは同じような破壊が進んでいることを思うとぞっとする。

 教会を出て、すぐ東にある「オイローパ・ツェンター」(Europa Center)という有名なショッピングセンターへ行く。ここも昔と変わらない。お判りのように英語読みだと「ヨーロッパ・センター」だが、ドイツ語読みだとこうなる。だからドイツ語は硬いと言われるのだが、これは日本語の発音で表現しているためで、本物のドイツ語の発音を聞いているとそうでもない。そもそも明治時代のドイツ語教育が良くない影響を与えたし、ヒットラーの絶叫は輪をかけてドイツ語のイメージを悪化させた。言っておくが、ヒットラーは元々ザルツブルグの北、ドイツ−オーストリア国境の町ブラウナウ(Braunau am Inn)の生まれ、だから普段の言葉には少しクセがあったはずだ。

 オイローパ・ツェンターで少し買い物をする。息子はやはりお菓子屋が中心だ。チョコレートなどを物色している。それとヨーロッパは「グミ」とか昔懐かしい「ビーンズ」などの本場で種類も豊富にある。「ハリー・ポッター」に出てくる「百味ビーンズ」みたいなものも売られていた。

 夕方になってホテルへ帰ったが、昼過ぎに大きなサンドイッチ(というより細長いハンバーガーに近い)を食べたので食欲が出ない。胃袋は完全に「お疲れモード」になり、今日も夕食はパスして風呂上りのビールとおつまみだけにしてしまった。

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