シベリア横断9300キロ <4.ベルリン編> −11日目−

 今日は一日中フリーなのでゆっくり寝ることにしてたのに、またぞろ早起きしてしまう。予定ではポツダム(Potsdam)のサン・スーシー宮殿(Schloß Sanssouci)を見学するはずだったが、息子はかなり疲れが溜まったようなので、午前中に私のかつての希望だった「壁痕跡ツアー」だけにしたのだった。

壁があった場所の記念プレート 壁の一部
壁の痕跡・南側 壁の痕跡・北側
ポツダム広場南東 ポツダム広場北東
 小雨が降る中、地下鉄でまずポツダム広場へ向かう。
 Sバーン(国鉄の近郊線)と共通の地下駅を上がり、広場を眺めたが、昔の面影は何一つ残っていなかった。南西の角には、ケネディー大統領も訪問したという、壁越しに西ベルリンから東ベルリンを望める櫓があったのだが、もはやその跡もわからなくなっていた。残っているのは"BERLINER MAUER 1961-1989"と書かれた(MAUERは壁を意味するドイツ語)プレート、そして壁の一部、壁が通っていたことを示すタイルだけだった。
 改めてベルリンの壁に近寄って眺めてみたが、高さ4mくらいある荒く作られたコンクリート製の塊はゴツゴツして冷たかった。写真は西から東に向かってのものだが、当時、壁の向こう側には鉄条網、そのまた向こうには鉄骨を十字に組み合わせたバリケードが幾重にも埋められていたのである。それは東西を地理的に隔てるだけでなく、人間同士の不信感をも表わすものだった。
 その壁の跡はタイルに刻み込まれている。タイルは広場を、道路を、歩道を突き抜けて敷かれている。あたかも町並みや地域を無視するように、ただ地図の上に線を引いただけのように、壁はひたすら地面を這っていた。
 写真を何枚か撮った後、ちょっと肌寒い広場の全体を見回した。広場の四方は戦前繁華街だった。当時の写真を見ると、市電が走る賑やかな商店街だったのがわかる。壁が出来てからは人ひとり寄り付かないゴーストタウンと化した。だが、壁崩壊後はこれまた新しいコンクリートジャングルが築かれ、人々のぬくもりが感じられない街が再現されようとしている。ポツダム広場はそうした冷たい歴史にもてあそばれる存在なのだろうか?

 ポツダム広場を後にして、次は地下鉄のシュタットミッテ(Stadtmitte)で降りる。ここから歩いてチェックポイント・チャーリーに向かうのである。
 小雨はまだ止まないし、風が吹くので少し寒い。途中建物の壁に沿ってパイプが走っているのを見る。多分都市ガスだろう。ドイツは昔からエネルギー源は電気が主で、台所も電気コンロだけしかなかった。今は都市ガスが普及してきたのだろうか。

東側の駐車場跡。レストランが建てられた
 チェックポイント・チャーリーにある記念博物館に入る。中は温かい。主に東からどのようにして逃亡したかの証拠物や写真を展示している。アメリカ管理地域だったので、その関係者が蒐集したのだろう。いかにもアメリカらしい発想だ。自動車や二重底のトランク、変わったものは東の建物からロープを投げてロープウェイよろしく滑車で滑り降りた逃亡者もいた。それらの写真集は20年前に私が買っていて、展示物の存在は知っていたが、実物を見るのは初めてである。
 昔、検問所と壁をを越えた北側には大きな駐車場があって、東の管理官がバスの床下を大きな鏡のついた手押し車で調べたり、パスポートのチェックをしていた。写真のように、駐車場跡にはレストランが建っていて、当時を偲ぶものは何もなかった。またここには壁のかけらも痕跡タイルもなく、検問所の建物と立て看板が唯一の手掛かりになっていた。

 検問所最寄りのコッホ通り駅(Kochstraße)から、次はフランス通り駅(Französischerstraße)へ向かう。ここは駅のホームそのものが見学の対象だ。昔は閉鎖され通過するだけの駅で、かつ地下鉄を逃亡手段として使わせない仕掛けがあった。
ホームの縁とトンネルの壁の隙間がない
 若干ボケた感じの写真だが、少し画像処理をかけてわかりやすくしたためである。簡単に説明すると、ホームの縁とトンネルの壁がほぼ一直線になっており、電車が走るとわかるのだが車体と壁との隙間が数センチしか残らないようにしてある。つまり駅から電車にぶら下がって逃亡することを防ぐための工夫だったのである。普通の地下鉄なら、保線のためや事故で逃げる乗客を救うためにホームから線路に下りる階段があるものだが、ここにはそれがないのだ。
 さらに、逃亡防止手段として、写真のコンテナ右手の階段は鉄のドアが付いているブロック塀に阻まれており、ドアの前には銃を手にした東独の兵隊が立っていた。
 壁があった当時、西ベルリンが管理していた地下鉄のうち、6号線と8号線は東ベルリンの地下を通るコースになっていた。しかし国鉄と連絡する6号線のフリートリッヒ通り駅を除いて、東地区の下にある駅はすべて閉鎖され、通過駅として扱われた。同時に地下鉄を逃亡の手段として使わせないように、このフランス通り駅のような仕掛けを作ったのである。人口の流出に対して、東独政府がいかに恐怖を感じていたかが良くわかる例である。

 ちょうど昼になったので「壁痕跡ツアー」を終えて一旦ホテルに戻る。それほど空腹になっていないので昼飯替わりにパフェを食った。
 昼前に雨は止んだ。しかしもう行くところがなくなった。息子と相談するが暇つぶしの方法がなかなか思い浮かばない。近場ではパンダがいる動物園と水族館があるが、息子は「動物園はガキっぽい」と嫌がった。「では水族館ではどうだ」ということで、渋々ながらもOKした。

オイローパ・ツェンターの水時計
 水族館へ行く前に、オイローパ・ツェンターの水時計を見ることにした。ライムのような黄緑色の水が算盤玉のようにくびれのあるサイホンに溜まっていく。写真左のくびれは1時間刻み、右は2分刻みで水が昇る。地下からの吹き抜けに設置されたこの水時計、昔はなかった。見物客は結構多い。我々も野次馬の仲間だったが。

 水族館へ行き、3階建ての上から順に見て回る。ウラジオストックの時と違い、ドイツ語の種名くらいは読めるので、息子に説明することができた。それとここの玄関にある細長いプールでは錦鯉が泳いでいた。
 それにしても「水族館」は1階だけで、上は爬虫類・両生類の展示ばかりである。世界的にも有名なコレクションがあるというが、こちらは専門家でもないのでちっともわからない。さらに毒蜘蛛も陳列されているのだからますますここが何の展示館なのか、混乱するばかりだった。
 どうもあちらの博物館などは玉石混合、展示物を整然と並べることにこだわる日本とはかなり違う。

ドツトムント行きICE
 水族館を出てツォー駅のあたりを歩いていると、ドイツの新幹線ICEを見つけた。早速ホームに上がってみる。見つけたものはすぐに発車してしまったが、15〜30分おきに走っているので、しばらく駅をぶらぶらしてから次の列車が来るのを待った。そして来たのがドルトムント行き。急いで写真を撮る。
 20年前はもちろんICEはなく、ハンブルグ(Hamburg)−ブレーメン(Bremen)の間の新線建設が始まったばかりだった。

 午後5時くらいだったろうか。ちょっと腹が減ったのでマクドナルドに入る。本当は息子と一緒にレストランへ入るつもりだったが、積極的な顔をしなかったので、これ以上無理強いをすることはないと諦めたのだった。折角ドイツに来て、あまり美味い料理があるわけではないが、ちゃんとした食事をするつもりだった。
 ところがホテルに帰ってちょっとだけ愚痴ると、「いや、大丈夫だったのに」とのたまう。あ〜あ、惜しいことをした!!

 というわけで今夜もビールとつまみ。しかしドイツのビールはうまい。(と、これは負け惜しみか)

 これで今度の旅は終わり、帰国の準備で忙しくなった。明日は午前9時45分の出発なので、7時頃にはホテルを出ないといけない。気温は昼間でも20℃くらいだが汗は出る。乾燥しているので服がべとつくことはないが、風呂に入りたい。
 しかしパッキングはきちんとしておかないと忘れ物をする可能性があるので、息子をせきたててスーツケースの整理をした。

 さあ、明日は飛行機を3回も乗り換える強行軍だ。

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