シベリア横断9300キロ <3.シベリア編> −2日目−
朝5時頃、時差の関係からだろうか、まだ暗いのに目が覚める。煙草を吸ったりもそもそしていると、息子も起きてきた。
雑談をしながら朝食を食べに外出する予定の8時を待つ。頃合になったので部屋を出てエレベーターのところへ行き、ちょうどフロアーの世話係(「ジェジュールナヤ」といい、ロシアのホテル特有のシステムで鍵の管理もやっている)がいたので朝食を食べる真似をした。すると彼女は向かいのバーのドアを指差して「開いているよ」という仕草をしたのである。あらら、暗いのでわからなかったが、中には昨日いたオバチャンがカウンターにいて客をさばいていた。早速ハムを挟んだロールパンとコーヒーを頼んだ。2人合わせてたったの100RUB、とにかく安い。これで昨日換金した150ドル分のルーブルは滅茶苦茶余るのではないかと心配になる。
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保存されているSL |
列車が出る夕方までかなり時間がある。暇なので駅を見に行こうとホテルを出
る。チェックアウトは12時までだから、むしろ荷物をどこに預けるか、ちょっと気になった。
駅までは歩いて5分足らず、駅前広場の反対側にはレーニン像が立っていた。駅の中に入って長距離便の電光掲示板を見ると、まだ9時頃なのにもう夕方の「ロシア号」の出発時間がすでに表示されている。長距離列車は1日数本しか出ないせいだろう。駅の構内にはSLが展示されていた。
駅からホームを繋ぐ陸橋を突き当たるとフェリーターミナルがある。日本からのフェリーもここへ到着するので、列車への乗り換えは非常に便利だ。フェリー乗り場まで来たとき、息子が急に腹が痛いと言い出したので一旦ホテルに引き返す。
10時過ぎにチェックアウトする。昨日取り上げられたパスポートを返してもらう。ビザもそうだが、外国人はすべてスパイ、みたいな扱いをしているようで気分は良くない。
荷物は有料でクロークに預けることができた。ブラブラ歩いてまず潜水艦を見に行くことにする。道路を歩いていて気付いたのは、右ハンドル車、すなわち日本の中古車ばかりだということである。あるワゴン車なんかは「丸亀ふとん店」と書かれたまま、塗り替えもせずに走っている。モスクワでは圧倒的に左ハンドルだが、ウラジオストックではやはり安い日本の中古車がよく売れるようだ。そう言えば昨日の出迎えの車もトヨタだった。
途中「革命戦士広場」を通るが、ずらっと露店が並んでいた。何故か衣類、書籍が多い。そこからしばらく歩くと潜水艦博物館に着く。中のエンジン関係は取り外されていたが、操舵室、魚雷室などはそのままで、魚雷なんかは日本のものとサイズがほぼ同じだった。
中を通り抜けることほんの数分。そこから港が見渡せる丘へ上がろうと思ったが、息子は腹の具合がもうひとつらしく、諦めてもと来た方向へ電車通りを「グム百貨店」へ向かう。
「グム百貨店」は瀟洒な建物、中も高級感を漂わせる雰囲気で、商品の展示方法、品揃えも昔の日本の百貨店を思わせる。3階建てで大きさは「ダイエー」の1店舗くらいか。ちょっと照明が暗いような気がする。衣類なんかは品質がもうひとつといった感じ。総じて商品の価格はテレビでも数万RUBと日本と変わらぬようだが、食料品の安さと比べれば、ロシア人にとっては高嶺の花と思われる価格だろう。
「グム百貨店」を出るがまだ昼前、他に時間を潰す場所を探すのと、昼飯を考えるために一旦駅へ戻る。ちょっとだけ雨粒が落ちてきた。
どうも私も息子もあまり腹が減っていない。そこでコンビニのような店へ行ってウィンナーの入ったパンと小さなピザを買った。するとそれらを電子レンジで暖めるサービスまでしてくれた。再び駅へ戻って、待合室でささやかな昼飯を食う。それにしても、駅をうろちょろする日本人親子はロシア人には奇異に映ったことだろう。
メシの後、夕方までのあり余った時間を潰すために、息子にどこへ行くか相談するが、これまたもうひとつ乗り気がしない様子。眠いのかも知れぬ。ああだこうだと議論しつつも、彼は渋々ながら水族館へ行くことを承諾した。ちょっとした丘を越えて半島の反対側の海岸へ出、遊園地の側を通って水族館らしき建物へたどり着く。”ОКЕАНАРИУМ”と書いてあるので、普通のアルファベットなら”OKEANARIUM”、間違いなさそうだ。これ以降、少しづつキリル文字を覚えていくことになる。
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チョウザメ |
水族館でチョウザメを見た。言わずと知れたキャビアの親である。
他に金魚が水槽に飼われていた。当然説明はロシア語なので他は何の魚かまったくわからない。それにしても雑多な魚がごちゃまぜにして飼われている。狭い建物なので、見て回るのに30分もかからなかった。
水族館を出てもまだ2時半。4時ごろにホテルで荷物を受け取り、駅へ向かう予定なのでまだまだ時間が余っている。駅まで戻る途中に州立博物館があるので、そこへ寄ることにした。
わざとだらだら歩き、さらに休憩を取ってから(と言いつつも、私も銀塩カメラにデジカメ、ショルダーバッグを担いで歩き続けるのがやや堪える年になってきた)博物館に入る。
ロシア語の説明はまったく読めないので、ここもまたあっという間に見て回って終わりとなる。受付のオバチャンが「もう回ったの?」みたいなことを言って、ビックリしていた。3時半をちょっと過ぎていた。時間を聞いた息子は「じゃあもう駅へ行こうよ」と言う。どうやら早く列車に乗りたいようだった。
ホテルで荷物を受け取り、スーツケースを転がしながら一路駅へ。駅へ着くなり息子が「ロシア号」が入線していないか様子を見に行った。4時過ぎだったが、既に列車は3番線に入っていた。
まだ出発まで1時間半近くあるが、荷物を持ってホームへ降りる。車掌がいたが、我々の顔を見て、まだだと首を横に振る。私は息子に荷物の監視を頼んで写真撮影に出た。
それにしても列車の編成が面白い。
機関車 |
荷 |
荷 |
0 3等 |
1 3等 |
2 3等 |
3 2等 |
4 2等 |
5 2等 |
6 2等 |
7 1等 |
8 2等 |
食
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9 2等 |
10 2等 |
11 2等 |
12 2等 |
13 2等 |
15 2等 |
と、0号車というのが存在するし、食堂車は番号から除外、おまけに13の次が15と、不思議な号車札がかかっている。なお、0号車はスベルドロフスク止まり、15号車はオムスク止まりとなっていた。おまけにこの後、ハバロフスクで18号車と19号車を増結、最大20両編成がロシアの大地を駆け抜けた。
ここで客席の等級を簡単に説明しておく。1等は2人のコンパートメント、2等は4人のコンパートメントで2段ベッド、3等は2段ベッドが蚕棚のように並ぶ。すなわち、ロシア号はすべて寝台車である。我々は7号車の7号室、座席番号13、14だった。4人部屋を予想していたが、旅行代理店が2人部屋の1等を手配してくれていた。
ウラジオストック−モスクワ間の1等料金は約9300Kmで約5万5千円。新幹線の東京−新大阪間が約550Kmで「ひかり」に乗ると1万4千円ちょっとだから、その安さがわかるだろう。
4時半くらいになってやっと乗車が認められた。そろそろ乗客も増えてくる。客室に入ってスーツケースを広げようとしたが狭い。座席の下は半分くらいが布団と枕を入れるボックスで占められている。仕方なく1個づつ広げて必要なものを取り出し、テーブルの下にスーツケースを積み重ねることにした。4人部屋だったら大変だっただろう。
出発までまだ時間があるので再び撮影に出る。機関車は出発20分前になってやっと来た。
ところで右の食堂車の写真を見ていただこう。”РЕСТОРАН”と書いてあるが、アルファベットを読める人なら「ペクトパー」と発音してしまうだろう。この話は故宮脇俊三さんの本にも出ていて、キリル文字の難しさを実感させられる。普通のアルファベットに展開すると”RESTORAN”になり、ああそうかと納得できる。キリル文字のルーツはギリシャ語。従って数学の授業を思い出していただければ、少しは理解しやすくなる。ただ、この旅行記を書くにあたって、ロシア語の表記に苦労した。私の使っているエディタでは特殊文字が打てない。よって別途Wordでキリル文字の一覧を作り、そこからコピー&ペーストする方法を取った。
さて、定刻より遅れること2分、17:37分に列車はゆっくりと動き出した。いよいよ6泊7日、9300Km(正確には9288Km)を150時間で走り抜ける旅のスタートを切った。
駅を出た列車はいきなりウラジオストックの町並みの下をくぐり抜けるトンネルに入る。抜けてしばらく走ると、左手に海と夕日を見ながらゆっくりと列車は走る。
その内に1週間ずっと付き合うことになる車掌がやってきた。女性2人で、片方は丸顔の背の低い「おかみさん」タイプ、もう一人は金髪のひ弱そうなオネエチャン(「おかみさん」と「パツキン」と名付けることにした)。検札とシーツ代の徴収である。2枚綴りの切符に破り目を入れ、コピーの方を回収していった。ついでに菓子の籠を置いていき、シーツ代と合わせて200RUBを持って行った。シーツはそのまま1週間使った。事前の調べでは、切符はすべて回収して下車時に返却、シーツは毎日取り替えとなっていたが、どうやら私の場合は違ったようだ。
ちょっと落ち着いたところで昼の残りのピザとカップラーメンを夕食として食べる。列車は次第に傾く夕日を見ながら一路北へ。遠くにある山の手前にアムール川が流れているはずだが、車窓からは草原しか見えない。モスクワまでの距離を示すキロポストを参考に速度を計ってみると90キロくらい出ていた。
9時頃になってやっと日没。沈んでいく赤い太陽が大変綺麗で、息子が感動していた。後で息子が「写真を撮っとけばよかったのに」と悔やむが後の祭り。
日も沈んでからシビルツェヴォ(Снбнрцево)という駅に2分停車。暗い中というのに近所のオバチャンがホームで野菜を売り歩いていた。根性である。こういう売り子の風景が駅ごとに続くのであった。
いよいよ1夜目、10時過ぎに寝ることにする。私は乗物の中で寝ることが不得意なのだが、翌朝まで目が覚めることはなかった。
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