神戸の街から:

神戸に住んでから25年以上。さる大企業に入社して最初は会社の独身寮、結婚してすぐ灘区のマンションへ。

住んでみて感じる神戸の印象、
− 外人が多い
− 金持ちが多い、反面下町には震災でも生き残ったプレハブ住宅がたくさんある。
− 横メシ(この表現はもう古くなったかな)の店が多い。特にパン・菓子類は店も多くどれもおいしい。
− 物価が高い。大阪とは比較にならん。
− 「神戸市株式会社」といわれる土地開発方式、合理的ではあるが問題も。

住めば都とはよく言ったもので、震災以降も今更引越しする気にはならなくなった。それとマンションの最上階(5階)なので、うちを訪れる人は大阪湾が一望できる眺望を誉めてくれる。ただ私の母なんかは風景にはもう飽きたのかエレベーターなしの階段を上がるのがしんどいと始終のたまうが。
そんなわけで現在住んでいるところの生活を今のところはエンジョイしている。

特集コーナー:
ボンネットバス写真集
王子動物園写真集
しあわせ運べるように(オルゴール)
震災についての兄への手紙、および外国人用にアレンジした英文

三菱神戸で造船の灯が消えた:(2012.03.10)
17年目の1.17と10ヶ月目の3.11:(2012.01.17)
非核神戸方式35周年:(2010.03.14)
神戸空港の借金はどうなるのか:(2010.02.11)
「メモリアルウォーク」に参加して:(2010.01.17)
「指定ゴミ袋」とはなんぞや?:(2008.11.03)
「神戸株式会社」の終焉:(2005.09.17)
久しぶりの六甲山:(2005.07.20)
蘇らない六甲道:(2005.06.06)
ついに10年目が来た:(2005.01.17)
パンがうまい:(2004.09.28)
遠足の思い出:(2004.03.28)
さらばキンシコウ:(2004.01.11)
六甲道再開発:(2003.10.21)
学校送迎「市」バス:(2003.03.16)
8年目:(2003.01.17)
パンダの選手交代:(2002.12.07)
次々と消える娯楽施設:(2002.10.26)
酒蔵を回るボンネットバス:(2002.09.29)
疑惑は晴れたが・・・:(2002.07.31)
兵庫駅あれこれ:(2002.05.16)
性別詐称疑惑??:(2002.05.15)
ケーブルカーの冬休み:(2002.02.02)
怒り・悲しみ:(2002.01.20)
7年目:(2002.01.17)
不況にまつわる2題:(2002.01.10)
今年もやる!ルミナリエ:(2001.12.03)
これは便利だ!:(2001.11.10)
「夢かもめ」に乗る:(2001.07.21)
「夢かもめ」開業:(2001.06.15)
K-CATの意義は失われた:(2001.02.27)
復活!摩耶ケーブル:(2001.02.12)
昨日・今日・明日:(2001.01.17)
6年目の「あの日」を迎えて:(2001.01.17)
感謝をこめて走る機関車:(2000.12.30)
続・今年もまたルミナリエ:(2000.12.23)
今年もまたルミナリエ:(2000.12.03)
続・市バス70年:(2000.12.02)
神戸いん石:(2000.10.15)
鉄道の日:(2000.10.14)
市バス70年:(2000.10.11)
死者ゼロの奇跡:(2000.10.09)
王子動物園:(2000.08.18)
空飛ぶパンダ:(2000.07.16)+追記(2000.07.25)
鷹取よさらば:(2000.05.08)
六甲山に登る:(2000.05.03)
市長リコールは成功するか?:(2000.04.22)
パンダが神戸にやってくる:(2000.04.05)
ルミナリエ存続:(2000.04.01)
変わった?名所:(2000.01.31)+追記(2000.07.25)
ちょっと珍しい物:(2000.01.23)
もう5年、まだ5年:(2000.01.17)
終わりの始まり:(1999.12.31)
やるべきことの優先順位を間違えるな:(1999.12.07)
大地震再び:(1999.10.03)
埋め立ては始まったが:(1999.09.19)
お見舞い:(1999.08.19)
梅雨が過ぎて:(1999.08.01)
繰り返される水害:(1999.06.30)
梅雨と言えば・・・:(1999.06.17)
祭り:(1999.05.16)
季節が変わって・2:(1999.05.05)
季節が変わって:(1999.05.03)
神戸空港問題について:
 1.空港の地理的条件:(1999.03.06)
 2.環境・騒音問題:(1999.03.10)
 3.建設資金:(1999.03.20)
 4.大型プロジェクトと景気対策:(1999.04.03)
4年目を迎えて:(1999.01.17)
今年も「あの日」がやって来る:(1999.01.06)
除夜の汽笛:((1998.12.30)
続・淀川長治さんを悼む:(1998.12.27)
ルミナリエ:(1998.12.19)
淀川長治さんを悼む:(1998.12.10)
外人が多いことについて:


三菱神戸で造船の灯が消えた:

昨日9日、三菱重工神戸造船所で最後の進水式が行われた。
100年以上の歴史を持つ造船所だが、神戸での一般商船の建造はこれが最後。自動車産業と並んで造船業は裾野が広いだけに、神戸市内にある多くの下請企業をはじめ、多くの関連企業が打撃を受ける。少なくない市民も撤退中止を訴えたが聞き入れられなかった。
以前、近くにある川崎重工でも造船をやめた時期があったがその後復活した。
日本の造船は中国、韓国の安値攻勢でシェアを奪われた上に円高でどこも苦しい。だが、過去何度も経験した造船不況を乗り越えてきたのである。今後も伸張が見込まれるLNG船をはじめ、需要が回復しないことはあり得ない。しかも三菱は造船で赤字を抱えているわけではない。目先の利益だけで動くようになった日本の大企業の身勝手さを象徴するような出来事である。
三菱神戸では今後潜水艦や原子力を主力にするというが、ご存知の通り原発の再稼動は闇の中、ましてや新設などはまったく望めない状態にある。このことを経営陣はどう考えるのか、その企業責任は重い。

17年目の1.17と10ヶ月目の3.11:

今年の1.17は3.11、すなわち東日本大震災の犠牲者の追悼と併せ、各所で行われた。
両者の質と量を単純に比較するのはおかしいかもしれない。しかし1.17の経験者から見れば、3.11は我々の想像をはるかに超えているように見える。巨大な揺れによって建物や交通網の崩壊で無残ながれきの山を見せた神戸の町並みだが、津波というのは沿岸の建物や人を地面から根こそぎさらっていった。この違いは我々神戸の人間から見れば桁外れの被害に見える。しかもこれに原発事故による長期にわたる被害が加わった。
だが家族を、友人を亡くし、途方にくれる人達に寄り添って気持ちを共有し、支えあうという気持ちは理解しあえる。
そういう意味で少なくない3.11の被災者が神戸を訪れ、心を開きあった。もちろんこれまでも神戸から物心両面の支援は行ってきたが、今日は追悼ということで悲しみの共有がメインである。
これからもこういう行事や種々の支援活動を通じて、同じ震災被害者としても文字通り「絆」で結ばれた連帯の輪は続いていくだろう。

非核神戸方式35周年:

1975年、神戸市議会でこんな決議が採択された。
「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」

 神戸港は、その入港船舶数及び取扱貨物量からみても、世界の代表的な国際商業貿易港である。
 利用するものにとっては使いやすい港、働く人にとっては働きやすい港として発展しつつある神戸港は、同時に市民に親しまれる平和な港でなければならない。
 この港に核兵器が持ち込まれることがあるとすれば、港湾機能の阻害はもとより、市民の不安と混乱は想像に難くないものがある。
 よって神戸市会は核兵器を積載した艦艇の神戸港入港を一切拒否するものである。以上、決議する。

1975年3月18日   神戸市会
また、この決議を受けて「神戸市港湾施設条例」が改正され、外国艦船は核兵器を搭載していない旨の「非核証明書」の提出を義務付けられたのである。これ以来、アメリカの艦船が神戸港に寄港したことはない。核兵器を積んでいることを「否定も肯定もしない」というアメリカ政府の方針のためである。
「非核3原則」のうちの「持ち込ませず」を神戸市は35年前から実践しているのである。国の法律として制定できないことはない。核密約が明らかになった今、政府としても密約を破棄し、「非核3原則」を法律として確定させるべきではないか。それが多くの国民の意思である。
非核神戸方式の議決から35年、この3月20、21両日には「記念のつどい」が開かれる。

神戸空港の借金はどうなるのか:

開港からもうすぐ4年、神戸空港の借金問題はまったく解決していない。
計画当初から予想されていた懸念は見事に的中した。目論んでいた土地は数%しか売れず、順次返済時期に入った総額1982億円は到底返せない状況にあり、市は借り換えで対処するという。サラ金地獄と同じパターンだ。
しかも空港を取り巻く雰囲気はさらに収入が減ることを予想させるものばかりである。不況の中でのJAL破産と神戸空港撤退、橋下大阪府知事による身勝手な3空港再編案など、借金を減らすどころかさらに増えることが見え隠れするのである。
市からは今後税金投入の案を出してくることが十分考えられる。しかし責任問題をあいまいにしたままでは市民は納得しまい。
悪しき公共事業の見本を作った市当局は何とする。漫才師の故・人生幸朗師匠の名せりふ、「責任者、出て来い!」は神戸市民の大多数の声である。

「メモリアルウォーク」に参加して:

初めて「メモリアルウォーク」に参加した。今回は10回目の開催。平日では参加できるわけもないが、今年は日曜日とあって健脚向きの東コース15Kmに挑戦した。スタートは西宮市役所、ゴールはHAT神戸。
コースとしては2号線をまっすぐ行くのかと思いきや、芦屋市から神戸市に入る少し手前で山手幹線に移り、そのまま自宅前を通って一気に王子公園前へ。そして南下してHAT神戸内のなぎさ公園のゴールまでであった。
渡された地図を見ると、西からの15Kmコースはスタートの須磨海浜公園から震災関連の記念物(もちろん「鉄人28号」も通過する)をジグザグに進んで地下鉄長田駅に出て、山手幹線を東へ。三宮を少し過ぎたら側道に入り、阪急春日野道を南下してHAT神戸に至るものである。
次回はいつになるかわからないが、今度は西コースをトライしてみようかと思う。
さて、肝心の東コースの写真集を作った。(右のポスターのリンクをクリック)
3時間で完歩を目指したが、やはり若い頃のスピードでいけるわけもなく、結果は休憩込みで3時間半。
途中のすべての信号には整理員がおり、「おはようございます」との挨拶を受けた。もちろん「ご苦労様です」と返すのは忘れない。
さて、ゴールでは完歩記念のバッジをもらい、もうひとつパッとしない展示コーナーを眺めながら、地域の自治会のおばちゃんが開いている模擬店の焼そばを食べてそのまま帰宅した。

「指定ゴミ袋」とはなんんぞや?:

2008年11月1日から、神戸市は家庭ゴミの収集に当たって市が指定するゴミ袋を使わないと置いていくという制度に変えた。
私のところでは今日3日が制度開始後初の収集日。しかし懸念されていた指定袋以外のものがあちこちに放置されていた。
やはり事前の周知徹底が不十分であったと言えよう。もちろん市民のモラルもあるのだが、何故こういう方式を取ったのか、また根本的には問題となっているゴミの分別が何故必要なのかをわかってもらうという姿勢が薄い。これまで、神戸市の人間が来て説明会を開くことなど一度もなかった。これではあまりに強制的。しかも「言うことを聞かないやつはゴミを放っていく」では市民サービスの精神に欠ける。
もうひとつの問題は、粗大系のゴミで指定の45リットル入り袋に入りきらないものは事前通知して有料で回収してもらわねばならない。リサイクルで使えそうな古い家具を捨ててあったのを目にした事もあるが、壊れた机などはどうしようもなく、これさえも有料化されては防衛策として切り刻んでゴミに出すしかない。
あちこちの自治体でゴミの有料化、あるいは指定袋にする動きが盛んだが、環境問題の取り組みとして、またごみ処理費用の削減について、もっと住民の協力が得られるような方法はないものか、工夫が必要に思う。

「神戸株式会社」の終焉:

9月12日、「神戸株式会社」のひとつの象徴でもあった須磨の土砂搬送ベルトコンベヤが41年の歴史を終えた。
新聞記事にもなっているが、神戸の一つの時代が終わった感じがする。寂しさはない。それはこのコンベヤに代表される開発方式がもはや通用しない環境になったと考えるからで、歴史的評価として「悪しきもの」と断定しているわけではない。
ただ、ポートアイランド、六甲アイランド、そして空港島という巨大な人工島を作ったことと、山を大規模に崩したことによる環境破壊がまったくなかったと言えるものではない。実際、名谷あたりの風向きや気象が変わってしまったという地元の人達の声もある。
これで大規模開発はこの先数十年、いや百年以上かも知れない、はないだろう。ひと頃、地下鉄を西神中央から押部谷へ延長する計画もあったが、当分はなさそうだ。

久しぶりの六甲山:

何年か振りに六甲山へ行った。そしてその変貌ぶりにびっくり。
回る展望台が休業、ロープウェーのケーブル山上−山頂の休止という話は聞いていたが、加えて凌雲荘も撤去されてその後が「ガーデンパレス」の一部になっているというのは知らなかった。
実は昨年秋にネット仲間と夜景を見るバスツアーで行ったのだが、暗くてわからなかったのである。
今日はまだ学校が終業式ということもあるから閑散とした風景だったが、展望台も撤去されて、昔を知る人間にとっては寂しい風景である。
とにかく歩くのも久しぶりだから無理はせず、ケーブルで上がってから最高峰までの往復のみ。チンタラ行って、途中で蕎麦を食ったからトータル4時間である。宝塚まで足を伸ばすようなことは避けた。もし途中で足が痙攣を起こしたらエスケープできないルートだからである。

蘇らない六甲道:

六甲道駅前にあるダイエーの店舗がひとつ、8月に消える。
ちょっと紛らわしい名前になっているが、駅北側にある「六甲道駅前店」が消える。南側の「六甲道店」は存続だ。
ダイエーそのものは放漫経営の末に大変な負債を抱えたままで再建をするようだ。倒産の影響が大きすぎるとして辛うじて持たせているが、普通の会社ならとっくに倒産、整理されているだろう。
それでも店舗のいくつかは閉鎖を余儀なくされ、そのうちの一つとして「六甲道駅前店」がノミネートされた。ノミネートされるには、やはり売り上げが悪いという理由があるからだろう。震災以後もなかなか人が戻らない神戸の繁華街。高層ビルという入れ物は作ってもなかなか中身が埋まらないのでは先が見えてしまう。
最近、出来て間もない居酒屋を見つけた。量は少なめだが安いメニューをそろえていて、一杯引っ掛けるには適当な感じがする。既に何回か訪れたが、常に満席というわけではない。だからやや不安な感じはする。
開店して1年もたたないうちにひっそりシャッターを閉める店が後を絶たない中で、「長持ちしてくれよな」とひとり心の中でつぶやくのだった。

ついに10年目が来た:

10年目の"1.17"がついにやって来た。震災当日を含めて初めての雨の朝だったが、いつものように5時過ぎに起床し、TVを点けて5時46分を待った。
振り返ればあれから10年。個人的にはもはや壁の内装に残った亀裂くらいしか当時を物語るものはない。また家族の生活も昔と同じである。
その一方で、まだ多くの人達が震災の傷跡に苦しんでいる。個々のケースは色々だが、その中で見過ごすことの出来ない現象と、その原因をふたつばかり取り上げてみようと思う。

ひとつは個人補償の問題である。
5年前、私はこう書いた。

根本的原因は個人補償がされなかったためである。震災で失った財産はそのまま純粋損失になる。従って、個人ベースで全額負担するとなると新たに生産される価値の相当部分が損失の補填に回され、拡大再生産の伸びは鈍る。それは個人であろうと企業であろうと同じこと。自己資金の蓄えは穴埋めに使われ、借金を抱えた場合はさらに深刻になる。活力が出ないのは当然である。
震災直後、村山首相(当時)が国会答弁で「個人の財産は個人のもの」という冷酷な発言をしたことが今も蘇る。また、大銀行は大切だから潰してはいけないと損失補填をし、罹災者は潰れてもかまわないという政府の姿勢が実態として浮かび上がったことも記憶に新しい。
完全な復興まで10年はかかるとの試算があったが、このままでは10年で済まないかも知れない。

ローンを組んで建てた家が潰れ、新しい住宅の分と合わせた多重債務で苦しんでいる人はまだ多い。また神戸での生活が再建できなかった人は移転したまま戻らない。だから人口はいつまでたっても回復しないのである。当然の結果として商店街には活気がない。長引く不況も消費に悪影響を与えているから深刻である。だから個人補償があれば10年以上も苦しみが続くことにはならなかっただろう。
再度強調するが、当時の村山首相が議場で演説している声は冷たく響いた。それは今もまぶたに焼き付いている。

次の問題は復興住宅だ。
仮設住宅で孤独死する人が多かったのは報道されたとおりだが、現在の復興住宅でも条件は変わっていない。古い近所付き合いを絶たれ、気さくに話ができる相手がいなくては、老人達は音が遮断されたドアの内側で淋しく過ごすことになってしまう。中越地震ではその教訓が生かされて、集落ごとにまとまるよう配慮されているようだが。
また高層化されたビル群は冷たい雰囲気が漂う。灘浜の復興住宅はその典型だが、住宅の中は商店もなく、買い物に出ようとしてもバスの本数は極端に少ない。老人がそう車を持っているわけでもなく(というか持てない)、外に出ても人工の公園は殺風景だ。知り合いとの語らいができるような街ではないのである。
このような高層住宅で特に感じるのは、建物の中の冷たい音の響き、そして太陽光のなさである。廊下は北側にあるのが普通になっているから、薄暗く、かつ人通りが少ない。話し声はやたら反響する。これでは世間話など無理だ。それは階下にある商店が入っているテナント部分でも同で、多くの商店は昔のようなオッチャン、オバチャンが気軽に客と会話できるようなスタイルにはなっていない。冷たいコンクリートの床と、アーケード代わりの蛍光灯の光は老人には馴染まない。
それと相まって、六甲道にあるような高層ビル群のテナントは淋しい限りだ、灘区役所が移転してきたが、多くの店には客がいない。早くに建った六甲道駅側のビルでは店を閉めたり入れ替わったりすることが多い。
こういった高層化の失敗の原因は、政府の援助金の申請期限が数ヶ月しかなく、住民の声を反映しないまま再開発計画が決められてしまったからである。

パンがうまい:

神戸は手作りのパン屋が多く、その味は何とも言えない素朴な味がする。またパンが持つ弾力は強く、ぎゅっと握ってもすぐに元の形に戻る。また店の数が多いだけに競争も激しく、独特の味やデザイン、種類などで特色を出そうと努力しているようだ。
そういう環境にあるから、神戸に住んでいると本物のパンの味に完全に馴染んでしまう。そうなるとCMに出ているような大量生産のパンは不味くて食えない。贅沢なようだが、それは自然な成り行きだろう。

遠足の思い出:

ふと、小学生のときの遠足を思い出した。京都生まれの私が初めて神戸に来たことだ。
多分4年生だっただろう。80系と呼ばれる古い快速電車に揺られること1時間以上、元町の駅を降りて中突堤に向かった。ポートタワーはまだなかった。当然ポートアイランドは埋め立てすら開始されていない時代である。
港めぐりの遊覧船に乗り、港内を一周した。コースは現在とほぼ一緒だったように思う。
船を下りた後は歩いて坂道を登り、諏訪山公園に行った。だが、その時の港風景は覚えていない。
たったそれだけの記憶だが、まだ頭の片隅に残っている。何かの縁だったかも知れない。
その後、一度だけ三宮に来たような気がするが、記憶は非常に曖昧である。そして就職で神戸に来た時はポートアイランドが建設中、市電はもうなかった。海は汚れ、真っ黒になっていた。

さらばキンシコウ:

王子動物園で飼育されていたキンシコウが1月9日、中国へ返還された。
1985年の「コウベグリーンエキスポ」に一度貸し出され、「孫悟空のオトッツァンのオトッツァン」のキャッチフレーズで人気を博したのがきっかけで、改めて1992年から1頭のオスが来日、その後メスも来日、さらには中国以外では初めての子供が生まれた。王子動物園の珍獣として、コアラ、パンダとともに人気があったが、いよいよ日本を去ることになった。
本HPでも、王子動物園の写真集にキンシコウが入っているので、興味のある方はご覧いただきたい。
ミナト神戸は海外との交流が多いのだが、動物によるものも目立つ。やはり国際交流というものはこうした明るいものでありたい。軍用機ではシャレにもならない。

六甲道再開発:

六甲道駅前の「ウエルブ・1号館」が完成した。2号館と同じ下はテナント、上は高層の住宅である。
震災後の再開発対象地域であるJR六甲道駅から国道2号線にかけて、コンクリートジャングルが次々とそそり立つようになった。「ウエルブ・1号館」が完成したことにより、六甲道駅側はほぼ整備された。2号線のあたりはまだ建設中である。
高層化が補助金の条件として震災直後に押し付けられたがために、この不況でなかなか資金調達が進まなかったのだろう、9年近くなってもまだ全部完成していない。また、完成してもテナントに客は寄り付かず、店はガラガラである。開店しても1年ともたないところも出るだろう。実際、2号館では何件かが閉店した。
判で押したような高層ビル群の再開発はもうやめにしたらどうか。

学校送迎「市」バス:

世に学校の送迎バスは多けれど、わざわざ市営バスを丸ごと拝借するというのはそうある話ではないと思う。
灘区は阪急六甲の駅を降りて、きつい坂道を歩けば1時間近くかかる場所に「松蔭女子大学」がある。だから駅から学校まで、朝の通学時間帯には送迎バスがピストン運転される。そしてこのバスは市営バスが使われるのである。方向幕には「松蔭女子大学」の文字が綺麗に書かれており、普段は路線バスとして運行されているが、朝の通学時間帯にだけ学校専用になるのである。従って系統番号はない。
大学最寄の市バス停留所は36系統の「六甲台南口」だが、降りてからもまだ歩かなければならない。そのあたりの理由で専用運行されるようになったのかも知れないが、詳細ないきさつとかいつから始まったのかは定かでない。

8年目:

また「あの日」がやってきた。8年目である。
相変わらず復興の速度は遅い。遅いどころかちっとも進まない。震災を機にした再開発で垂水、新長田、六甲道などの駅前に高層ビルという「ハコ物」はできるが、中はガラガラ、一部には早々と撤退する飲食店などもある。不況ということもさることながら最初のボタンの掛け違い、すなわち個人補償をやらなかったことと、政府の援助金が出ないということのために早々と高層ビルの乱立計画を決めてしまったからである。そこには住民にとっての利益の根本が抜けている。実態として、真に住民の活力を出させることにはならず、単に「施し」をしただけのことにしかなっていない。本当に残念だ。
さて、思いを新たにするため、以前にも掲載した「しあわせ運べるように」の曲と、兄への手紙およびそれを来訪する外国人用にアレンジした英文のものをリンクしておく。記憶は年とともに薄れていくが、あの日の衝撃は忘れられないし、また忘れてはならない部分もあると考えるからである。
 −追記−
上記原稿をアップした後、犠牲者の数が1名増えていることを知り、調べたらこういうことだった。

「死者6433人」。8年前に発生した阪神大震災の死者数が昨年末、3年ぶりに改められ、1人増となった。政府が6433人目と認定した死者は、地震発生時、兵庫県芦屋市の病院に入院していた男性(当時75)。これまで「病死」扱いだったが、妻(75)が「震災の犠牲者だ」と訴えていた。政府発表の1週間前、「震災がなければ延命していた」との判決が最高裁で確定した。16日、震災犠牲者の名簿が刻まれた慰霊碑の銘板に、その名も加えられる。
(1月14日付asahi.com)

パンダの選手交代:

繁殖能力が劣るとして、王子動物園のパンダ「興興(コウコウ)」(六歳)が5日に中国へ帰国、代わりに9日、「龍龍(ロンロン)」(七歳)がやってくる。思いがけないハプニングでゴタゴタしたが、中国との協議ですんなり解決した。
21日から一般公開とのこと。また賑やかになることを期待したい。

次々と消える娯楽施設:

来る11月24日で六甲山上にあった「回る十国展望台」が消える。
明石海峡大橋のたもとにあった「舞子タワー」が消え、来年には「宝塚ファミリーランド」と同時に「ポートピアランド」が閉鎖されることが決まっていたが、まさか六甲山までもとは・・・
甲子園球場の側にあった「阪神パーク」もなくなって久しいが、この底なしの不景気では採算が取れなくなってきている娯楽施設や遊園地が増えてきているのは当然だろう。しかしこうして櫛の歯が抜けるように次々と閉鎖されていくのを見るのはまことに淋しい限りである。

酒蔵を回るボンネットバス:

今年で3回目のボンネットバス運行、今回は地元灘区・東灘区の酒蔵を回るコースで走る。始発・終点ともにJR六甲道。
10月12日を除く11月24日までの毎土・日・祝日に、1日6便が走る。
興味のある方はどうぞお越しを。 →写真

疑惑は晴れたが・・・:

王子動物園のオスのパンダ「コウコウ」(五歳)の性別疑惑、ついに結果が出た。
疑惑は「シロ」だったのだが、可哀相なことに生殖器の発達が十分でなく、オスとしての能力はなし、と断定されてしまったのである。ということで中国に送り返されて別のオスが来ることになった。哀れ「コウコウ」・・・

兵庫駅あれこれ:

一昨日のこと、JR兵庫駅はワールドカップ最寄の駅ということで線路の石(バラスト)を樹脂で固める作業をした。もちろんフーリガンなど興奮したファンが投石できないようにするためである。何とまあ大袈裟なことをすると思った。ところで兵庫駅にまつわる話を2つ。
ひとつはその昔、神戸高速鉄道が開通する以前は兵庫駅が山陽電鉄の神戸側始発駅であったことである。兵庫から西代まで、路面電車よろしく道路の上にレールが敷かれていた。今はもう終着駅だった面影はほとんどない。わずかに、駅前があまり賑やかでない割には広場が大きいことと長田へ向かって西北に延びる道路の幅がやや広いことにその痕跡を感じるだけである。
次はJRの兵庫駅から和田岬までの短い線路の話。わずか2.7Km、朝夕の通勤時間しか走らない単線、かつひと駅しかないがれっきとした山陽本線の一部(通称「和田岬線」)である。こんな採算度外視の路線だが昨年7月から地下鉄海岸線開業に合わせて電化し、それまでの薄汚れたディーゼルカー(キハ35)に変わって電車が走るようになった。
こんな裏ぶれた盲腸線を電化してまで残すのにはわけがある。終着駅の和田岬の周辺には三菱重工と三菱電機の大きな工場があること、さらに沿線の途中に川崎重工の車両工場があって引込線の役割を捨てられないからである。しかし不思議なことに在来線の車両はこの線路を利用するが、新幹線用車両は利用しない。線路の幅が合わないことと新幹線への接続ができないためで、東海道・山陽新幹線は大型トレーラーで鳥飼基地まで陸上輸送(TVで「道路を走る新幹線」などと報道されることもある)、東北・上越新幹線は工場横の運河からはしけで仙台まで運ばれる。